初期ハリウッドを席巻したエキゾチックな「妖婦」、セダ・バラの生きざま

初期ハリウッドの大スター、セダ・バラ
セダ・バラの生い立ち
ブロードウェイデビュー
第一次大戦と映画デビュー
年齢を偽って映画デビュー
『愚者ありき』
架空の人格「セダ・バラ」の誕生
一夜にして大スターに
『カルメン』(1915年)
セダ・バラの過剰なイメージ戦略
ニコラ・テスラの逸話
他の役にも挑戦
ホテルを借りて飾り立てる
セダ・バラはフェミニスト?
きわどい衣装
スペイン風邪の流行と戦争終結
念願の純真な娘役
フラッパーの台頭
ブロードウェイに復帰
チャールズ・ブレイビンと結婚
作品のほとんどが焼失
セダ・バラの死と、死後の名声
初期ハリウッドの大スター、セダ・バラ

セダ・バラ(Theda Bara)。その名はあまり知られていないが、初期ハリウッドの大スターである。活動期間はチャーリー・チャップリンと重なり、彼と同じくらい有名だった。彼女は性的魅力を売りにする映画女優のはしりでもある。バンプ(妖婦)あるいはファム・ファタル(運命の女)、呼び方はともかく、男を蠱惑し破滅させる女だ。

セダ・バラの生い立ち

セダ・バラ、本名セオドーシア・バー・グッドマン(Theodosia Burr Goodman)は、1885年、オハイオ州シンシナティに生まれた。父はポーランド出身のユダヤ人で仕立て屋、母はスイス生まれ。セダ・バラは少女のころから映画が大好きで、いつか自分もスターになりたいと夢見ていた。

画像:Promotional photo printed in St. Louis Globe-Democrat, 1916 / Wikimedia

ブロードウェイデビュー

1908年、地元の舞台で何度か役を演じたあと、セダ・バラはニューヨークに出て女優として名を立てようと決意し、引っ越した年のうちにブロードウェイデビューを果たした。だが、それからが続かなかった。彼女は思案し、映画界に目先を転じる。

第一次大戦と映画デビュー

第一次大戦前、手の込んだ大作映画(当時はサイレント映画)は主にヨーロッパで作られていた。アメリカで作られる映画は文字どおり使い捨ての短編もので、せいぜい数日で新しいものに取り替えられ、役者もたいがい無名だった。しかし、通説によると第一次大戦が契機となり、映画づくりの中心が戦争で荒廃したヨーロッパからアメリカに移り、ハリウッド映画の黄金期が始まる。セダ・バラの映画デビューはそんな時期にあたっていた。

画像:Wikimedia

年齢を偽って映画デビュー

彼女がスクリーンに初めて登場したのは1914年のことだった。フランク・パウエル監督の『The Stain』。履歴書には24歳と書いていたが、実際は29歳のセダ・バラ。監督は端役のオーディションに参加した彼女を見て、年齢はともかく、カメラ映えするカリスマ性を見抜いた。映画プロデューサーのウィリアム・フォックスは週給百ドルの五年契約を彼女と結んだ。

画像:'The Stain' (1914), Pathé Frères

『愚者ありき』

ウィリアム・フォックスの頭にあったのは、彼女を翌年の映画『愚者ありき』に出演させることだった。バンパイア的(男の精気を食い物にする吸血鬼のイメージ)な女が男を魅惑し、破滅させる筋書きのサイレント映画である。この映画によって、「バンプ」という言葉が大衆に広まった。ミステリアスなフェミニン・パワーで男を搾りつくす、魔性の女という類型である。

架空の人格「セダ・バラ」の誕生

フォックス(FOX)の宣伝部は、セダ・バラを神秘的なエジプト女として売り出すことにした。広報係はメディアに対して、セダ・バラの生まれはサハラ砂漠、スフィンクスの庇護のもと育ち、パリで有名なスターになったが、戦争が始まる前にフランク・パウエル監督によって救出された、とのたまった。

一夜にして大スターに

『愚者ありき』(1915年)はその年のベスト10に入るほどのヒット作となり、セダ・バラは一夜にして大スターになった。これに味を占めたフォックスは、またしても彼女を「バンプ」の役に据えて、『Sin』や『Destruction』といった映画を作った。セダ・バラは1915年だけで10本に出演している。

『カルメン』(1915年)

その年に彼女が演じた「バンプ」役はどれも多かれ少なかれ似通っていたが、映画『カルメン』(ラオール・ウォルシュ監督)ではそこから一歩踏み込み、より深みのあるキャラクターを演じている。原作はプロスペル・メリメの中編小説『カルメン』。フィルムは現存していないが、この映画も当時大いにヒットした。

画像:Motion Picture News, Vol 12, No. 18, Nov. 6, 1915

セダ・バラの過剰なイメージ戦略

映画会社の宣伝部はあいかわらず、この世のものともつかぬパーソナリティーを彼女に付与しつづけた。わざわざ骨相学者を雇ってきて彼女が蛇の筋肉組織をしていると言ってみせたり、セダ・バラ(Theda Bara)は「アラビアの死」(Arab Death)のアナグラムである、デリラのような邪悪な女性の生まれ変わりである(デリラは旧約聖書中の人物で、夫を裏切ったとされる)と言ってみたりした。

ニコラ・テスラの逸話

セダ・バラの名声はいやまし、その神秘的な魅力はますますかきたてられたので、発明家ニコラ・テスラは彼女の写真を火星まで持っていくと約束した、という有名な逸話が残っている。

他の役にも挑戦

彼女の伝記作者によると、セダ・バラは変わり映えのしないバンプ役にそろそろ飽き始め、もっと別の役にトライしたいと思うようになってきた。彼女の言によると、当時の映画制作は工場でホットドッグを作るようなもので、お決まりの商品を製造する味気のないものだったという。とはいえ、彼女がバンプ以外の役を演じるとその映画は売れなかった。後世の研究によると、これは宣伝部が熱心でなかったせいもあるようである。

ホテルを借りて飾り立てる

実際の彼女はオハイオ州生まれの読書好きな女性だった。プロデューサーは彼女のためにホテルの一室をニューヨークに借り、その部屋を東洋風のじゅうたんや壁掛け、エジプト風の模様の入った壁紙、そのほかエキゾティックでオカルティックな雰囲気をかもすあれやこれやで一杯にした。その部屋で彼女は記者の取材を受け、自身の生い立ちについてでたらめを並べた。本当の生活は別のところで営まれていた。彼女はニューヨークに家を買い、母、弟、妹と暮らしていたのだ。

セダ・バラはフェミニスト?

このようにでっちあげられた彼女のライフスタイルは、当時としては進歩的なものに思えるかもしれない。じっさい、セダ・バラはみずからを男女間の格差を是正する“フェミニスト”であると称していた。しかし注意が必要である。映画史の研究者によると、セダ・バラは渡された台本を読んでいたにすぎず、映画会社は彼女のキャリアを「出しゃばる女は破滅する」式のヴィクトリア朝ふう教訓話に仕立てようとしていたのだという。

きわどい衣装

セダ・バラの衣装はかなり露出が多かった。『クレオパトラ』(1917年)がよい例である。だが、とりたてて露出が多いというわけではない。当時の映画は衣服についての(衣服のないことについての)取り決めが特になかったのだ。ハリウッドで自主検閲が厳しくなるのは1930年の「ヘイズ・コード」以降である。検閲があっても地域ごとで、ある町で作品の一部が上映不可でも、となり町の映画館に観客が詰めかけるだけだった。

画像:Publicity photo of Theda Bara for the American film Cleopatra (1917) / Wikimedia

スペイン風邪の流行と戦争終結

『クレオパトラ』は大ヒットした。彼女の出演作はおしなべてヒットしたといえる。だが、第一次大戦が終わりスペイン風邪が流行すると、映画館から人が消えた。いくつかの出演作は批評家から無視されたり、酷評されたりした。セダ・バラとしても従来のバンプものを見放しつつあり、バンプものではない脚本を手にしようと躍起になっていた。

画像:Theda Bara in one of her famous risque costumes in a promotional still from the 1917 film 'Cleopatra,' which has since been lost / Wikimedia

念願の純真な娘役

そしてついに、映画『Kathleen Mavourneen』(1919年)で、気立ての良いアイルランド娘の役を見つける。これはイメージを刷新する役になるはずだった。ところが、正真正銘のアイルランド系女優をキャスティングしなかったことがアイルランド系移民の怒りを買った。いざ上映が始まると抗議運動が持ち上がり、映画館で暴動が起きさえした。セダ・バラは複数の殺害予告を受けた。そして結局、映画を劇場から引っ込めざるをえなくなった。

画像:'Kathleen Mavourneen' (1919), Fox Film Corporation

フラッパーの台頭

1920年になるころ、彼女のゴシック風の衣装や官能的な肉体、オリエンタルな雰囲気はすでに流行遅れとなっていた。1920年代のアメリカといえばフラッパーの全盛期である。ショートカットで奔放、気ままで移り気な女性が町の主役だった。

ブロードウェイに復帰

1920年、彼女はブロードウェイに戻り、『The Blue Flame』に出演する。批評家たちはその演技をこきおろしたが、かえってチケットは完売する。映画スターのひどい演技を一目見ようと物見高い連中が押し寄せたのだ。彼女は本作のプロデューサーでもあったから、たいそう儲かった。

画像:Publicity photo for 'The Blue Flame,' New-York Tribune, 15 February 1920 / Wikimedia

チャールズ・ブレイビンと結婚

その後、彼女は1921年に映画監督のチャールズ・ブレイビンと結婚する。彼とは映画『Kathleen Mavourneen』で知り合った。伝記作家によると、映画界に復帰しようとする彼女をブレイビンが思いとどまらせたという。二人に子供はいなかったが、オハイオ州シンシナティとノバスコシア州に巨大な家を二つ所有していた。

画像:Theda Bara and her husband, film director Charles Brabin, in 'Photoplay Magazine,' June 1922 / Wikimedia

作品のほとんどが焼失

彼女の出演した映画は全部で40本以上にのぼるが、1937年にフォックス社のフィルム倉庫で火事が起き、その大半が失われてしまった。映画はきわめて燃えやすいナイトレートフィルムの形で保存されていたのだ。完全な形でプリントが現存しているのはほんのわずかで、そのうち最も有名な一本が『愚者ありき』である。他の出演作については、撮影の合間に撮られたスチール写真くらいしか残っていない。

セダ・バラの死と、死後の名声

引退からおよそ30年後の1955年、セダ・バラは胃がんによりロサンゼルスで亡くなった。69歳。その頃には彼女の作品群はほとんど見向きもされなくなっていた。だが、死後しばらく経ってから、初期のアメリカ映画とその当時の女性の地位について関心を持つ人々を中心に、彼女の功績を再評価する動きが生まれた。1994年には彼女の姿をデザインした郵便切手が発行され、2006年にはニュージャージー州に彼女の名を冠した通りができた。フィルムは焼失しても、セダ・バラの記憶は消えなかったのだ。

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