「ターザン」を演じた無敗の水泳選手、ジョニー・ワイズミュラーの世にも奇妙な人生
2つの全く異なる分野で優れた能力を発揮するのは簡単なことではありません。しかし、ジョニー・ワイズミュラーはまさにそんな稀有な才能の持ち主でした。
ハンガリー出身のジョニーは、オリンピックの競泳で5回優勝したばかりか、1930年代から1940年代にかけて映画でターザンを演じたことで有名になりました。
ターザン役によって世界的なアイコンになる以前、そもそもジョニー・ワイズミュラーは水泳選手として活躍していました。とりわけ得意種目である100メートル自由形では、無敗を誇っていました。
水泳を通じ、史上最も偉大なアスリートの一人となったジョニー・ワイズミュラーの数奇な人生を振り返ってみましょう。
ジョニー・ワイズミュラーは、1904年6月2日にハンガリーのフライドルフ、現在のルーマニア・ティミショアラ市の一角で生まれました。しかし、家族が米国ペンシルベニア州に移住することになり、生後7か月で祖国を離れました。
家族は最終的にシカゴに落ち着きましたが、ジョニーは9歳のとき、ポリオ(脊髄性小児まひ)にかかります。医師が治療のために水泳を勧めたところ、ジョニーは病を克服したばかりかこのスポーツに夢中になり、たちまち優れた才能を発揮し始めました。
10代のジョニーはまさに水を得た魚のように、あらゆる記録を更新していきます。1922年7月9日、18歳のとき、ジョニーは史上初めて100メートル自由形で 60秒を切るという快挙を成し遂げました。その記録は58.6秒でした。
ジョニーには、1924年のパリ五輪に参加するという夢がありました。しかし、当時は米国代表として五輪に出場するには米国生まれである必要があったことから、ジョニーは移住直後に生まれた弟ピーター・ジュニアの生年月日や出生地を使うことにします。
こうして米国選手として五輪に参加した20歳のジョニーは、出場したすべての種目で圧倒的な勝利を収めました。 7月18日から20日にかけて、100メートル、400メートル、4×200メートルリレーで金メダル、水球で銅メダルの計4つのメダルを獲得したのです。
ジョニーの成功は新聞の見出しを飾り、水泳選手として国際的なスターになりました。これをきっかけに米国籍の取得にも成功、自身の名前や生年月日を使えるようになりました。
4年後、水泳選手として100メートルと4×200メートル自由形で2つの新たな金メダルを獲得し、再び偉業を達成します。
また、1924年にジョニーがパリ五輪で樹立した100メートル自由形 57秒4という記録は、1934 年まで破られることはなく10年にわたり世界記録であり続けました。つまり、ジョニーは現役の間に競泳で負けたことは一度もなかったのです。
1929年、ジョニー ・ワイズミュラーは下着ブランドBVDと契約を結びました。ジョニーは水泳選手としてのキャリアを終え、モデルとして世界中を飛び回ることになります。
モデル転身後、競泳で鍛えあげた体格が注目を浴び、1929年に『アメリカ娘に栄光あれ』で映画デビューを飾ります。ジョニーは、イチジクの葉だけを着けてアドニス役を演じました。
1932年に映画でターザン役に抜擢されたことで、ジョニーは俳優として大きなブレイクを果たします。ジョニーはターザン役を演じた6人目の俳優でしたが、ターザンのトーキー映画においては、最初の俳優でした。
ジョニーはキャリアを通じて12本の『ターザン』映画に出演しました。今や伝説となったターザンの叫び声など、ジョニー自身がジャングルの王者のイメージを決定づけることになりました。こうして、ジョニー・ワイズミュラーは世界で最も有名な俳優の一人になったのです。
ジョニーは1948年にターザン役を引退、1957年に俳優としてのキャリアに終止符を打ちました。不幸なことに、ジョニーはそれからまもなく5度の結婚で借金を抱えることになり、精神病院で生涯を終えます。1984年1月20日、ジョニーは肺水腫のため79歳で死去しました。