銃撃されても生き延びた著名人たち
アメリカでは銃が広く普及しており、銃犯罪も多い。それはすなわち、セレブが撃たれてしまうのも珍しくないということ。ジョン・トラボルタやチャーリー・シーンと交際していたこともあるケリー・プレストンも被害に遭った一人だ。
ケリー・プレストンとチャーリー・シーンは当時ハリウッド随一のホットなカップルだったが、1990年にプレストンが腕を撃たれ、関係は解消に至ってしまった。いったいなにがおきたのだろうか。
『ニューズウィーク』誌はこう報じている:「プレストンは腕を縫うけがを負った。当時の報告によるとシーンがプレストンを撃ったようだが、意図的か事故かはわからない。ただし、本人もプレストンもシーンの責任を否定している」この件に関しては後年までDVの疑いが残り続けた。
ニューヨークのアートシーンを代表する存在で、ポップカルチャーのアイコンでもあったアンディ・ウォーホルも銃撃されたことがある。1968年、自身の作品を盗まれたと思い込んだヴァレリー・ソラナスがオフィスに乗りこんで発砲したのだ。
ソラナスの撃った弾は肺や胃を貫通し致命傷かと思われたが、治療の甲斐あってウォーホルは生存。それでも1987年に58歳で亡くなるまでウォーホルは補助具の装着を余儀なくされた。
2020年7月、ラッパーのトリー・レーンズが同じくラッパーのミーガン・ジー・スタリオンの脚を撃っていたことが報じられた。ミーガンがインスタグラムのLiveで明らかにした。そこでミーガンはこう語っている:「弾を取り出すために手術が必要でした」
ミーガンは当初撃たれたことを黙っており、足の怪我については割れたガラスで切ってしまったと偽っていた。同じくインスタグラム上でミーガンはこうも語っている:「何が起きたのか警察には黙っていました。死にたくないですから」
ラッパーのリル・ウェインは1994年、彼がまだ12歳のころ、母親が家に隠していた銃を取り出して自分の胸を撃ったのだという。「MTV」に出演した際にはじめて明かした。
後年、自身の楽曲「Let It All Work Out」の中でウェインは自ら命を奪おうとしたときのことを歌い、同じ状況にある人の助けになりたくてこの曲を書いたと述べている。
『おもいでの夏』(1971)などに出演しているジェニファー・オニールは1982年の10月、ニューヨークの自宅で自身の所有する拳銃に弾が装填されているのかどうか確かめようとしていた。
その結果、たしかに弾は装填されており、自分の腹部を撃ってしまうことに。それでも幸運にもオニールは命を取り留め無事回復できた。
ヒップホップレーベル「デス・ロウ・レコード」設立者であるシュグ・ナイトは2014年8月に、西ハリウッドの1OAKナイトクラブでのパーティー中に6回も撃たれた。
ナイトはただちに病院に運ばれ、緊急手術を受けた。しばらくは集中治療室からでられなかったが、それでも回復することができた。ちなみに、パーティーの主催者はラッパーのクリス・ブラウンだった。
アメリカのロードレーサー、グレッグ・レモンは1986年にツール・ド・フランスで優勝。だが、翌年はタイトルを防衛することはできなかった。というのも、ハンティング中に義理の弟のパトリック・ブレイズに散弾銃で背中を撃たれてしまったのだ。
レモンはあわや失血死というところだったが、医師の処置のおかげで生還。それでも、レモンの背中に撃たれた散弾60発のうち取り除けたのは25発だけで、残りはいまだに体内に残っている。しかもそのうち5発は心臓のごく近くにあるのだという。
1994年11月、ラッパーの2パックはマンハッタン中心地にあるスタジオでのレコーディングに向かっている際に三人組の強盗に襲われた。強盗らは金銭を要求したうえ、2パックを撃って逃げてしまった。
『ニューヨーク・タイムズ』紙によると2パックは頭を二回、鼠径部を二回、そして手を一回撃たれたのだという。それでも幸運にも生き延びることができたのだが、その運も二回は続かなかった。二年後の1996年9月にラスベガスで運転中にまたも銃撃され、今度はそのまま亡くなってしまったのだ。
1976年、「スマイル・ジャマイカ・コンサート」開催の直前、ボブ・マーリーはキングストンの自宅で襲われ、腕を撃たれてしまう。
だがボブ・マーリーはその負傷もものともせず、二日後にはコンサートを決行した。『ニューヨーク・タイムズ』紙が報じている。
名優ヘンリー・フォンダの息子ピーターは10歳のころ、事故で自分を撃ってしまった。弾は貫通せず胃に残り、そのせいで複雑な手術が必要になったのだという。2000年に『ニューヨーク・ポスト』紙のインタビューで語った。
ピーターは後にジョン・レノンやジョージ・ハリソンとともにこの時のことなどを話し、死とは何かを知る経験を語り合った。この奇妙で幻想的なエピソードがもととなって、ビートルズの伝説の曲「シー・セッド・シー・セッド」が作られたのだ。
ラッパーの50セントは2000年、運転中に突如襲われ9回も撃たれたことがあるという。50セント自身がオプラ・ウィンフリーとのインタビューで明かした。
50セントはそのインタビューでこう語っている:「撃たれた瞬間は皆が考えるほど痛くはありません。起きたことへのショックが強く、アドレナリンが出ていますから。痛みは後からやってきます」
元メジャーリーガーのデビッド・オルティーズは2019年、母国のドミニカ共和国で友人と酒を飲んでいた時、その友人を狙った弾に当たってしまった。
オルティーズによると、治療のために入院していた二か月間はかなり辛かったらしい。というのも、怪我した個所が悪く、6週間もの間なにも飲み食いできなかったというのだ。本人がアメリカのスポーツチャンネル「ESPN」に語っている。
カントリー歌手のトレース・アドキンスは1994年、妻のジュリー・カーティスとの口論が白熱して何か所も撃たれてしまったという。自伝『ア・パーソナル・スタンド』の中で明かした。
その時の怪我からは無事回復することができたが、夫婦関係のほうはそうはいかず、数年後に離婚に至った。それでも、この出来事を警察に届け出たりはしなかったという。
名物コメディ番組「サタデーナイトライブ」のオリジナルメンバーの一人でもあるギャレット・モリスは、1994年に二人組の強盗に襲われて撃たれてしまった。モリスは武術の心得があったので反撃を試みたのだが、二人目に撃たれたのだ。
モリスは意識不明の重体で病院に運ばれ、8か月の間に10回もの手術を受けることになった。本人が『ロサンゼルス・タイムズ』紙に語っている。
1978年3月、雑誌『ハスラー』創刊者のラリー・フリントが何者かに襲撃された。ジョージア州の裁判所付近での犯行だった。後に白人至上主義者のシリアルキラー、ジョゼフ・フランクリンが犯行を認める供述をしている。
フリントは一命をとりとめたが、下半身に麻痺が残ってしまった。一方、フランクリンはこれ以外にも22の殺人で有罪とされ、2013年に死刑が執行されている。