いまだ多くの謎に包まれた古代マヤ文明の遺跡:チチェン・イッツァ

マヤ遺跡、チチェン・イッツァ
マヤ文明最大級の遺跡
チチェン・イッツァの起源
天然の泉セノーテ
「イッツァの井戸のほとり」
600年頃まで最も重要な都市の1つ
旧チチェン・エリア
トルテカ帝国
マヤ文化とトルテカ文化の融合
遺跡の一部は征服前のもの
マヤ文明とトルテカ文明の世界感
ククルカン神殿
「ククルカンの降臨」
球戯場
宗教および貿易の中心地
都市の滅亡
侵略、政情不安、交易経路の変更
謎の解明にむけて
マヤ遺跡、チチェン・イッツァ

ユカタン半島北部のジャングルの中に、マヤ文明の遺跡チチェン・イッツァがある。1988年にユネスコの世界遺産に登録され、現在では年間200万人以上が訪れる一大観光地となっている。

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マヤ文明最大級の遺跡

19世紀に発見されたチチェン・イッツァは、マヤ文明最大級の遺跡だ。さらには現在に至るまで、新たな発見が相次いでいる。

チチェン・イッツァの起源

多くの謎に包まれ、起源も明らかになっていない。人が定住しはじめたのは紀元415年から435年の間とされているが、紀元455年との記録もある。

天然の泉セノーテ

チチェン・イッツァは、2つのセノーテ(陥没穴に地下水が溜まった天然の泉)の近くに造られた。ユネスコの世界遺産によれば、このセノーテが名前の由来だという。

写真:Wiki Commons By Dronepicr - Own work, CC BY 3.0

「イッツァの井戸のほとり」

チチェン・イッツァとは「イッツァの井戸のほとり」を意味する。泉の近くに都市が造られたことで、住民達は地下水を活用することができ、それが発展に繋がったのかもしれない。

写真:Wiki Commons By Uspn - Own work, CC BY-SA 3.0

600年頃まで最も重要な都市の1つ

衛星放送『ヒストリーチャンネル』は、チチェン・イッツァが「600年頃までマヤ文明の政治・経済の中心地だった」としている。しかし今ある形になったのは、さらに後のことだ。

写真:Wiki Commons By Keith Pomakis - Own work, CC BY-SA 2.5

旧チチェン・エリア

遺跡の中で最初に造られたエリアは、旧チチェンと呼ばれている。そこには6世紀から10世紀にかけてのマヤ文明の特色が顕著に表れたモニュメントや建物がある。

写真:Photo Credit: Wiki Commons By HJPD - Own work, CC BY-SA 3.0

トルテカ帝国

チチェン・イッツァが今ある形となったのは、10世紀にトルテカ帝国の戦士達が移住してきてからだ。セ・アカトル・トピルツィン・ケツァルコアトル王(マヤ人はククルカンとも呼んだ)が、紀元967年から987年の間にチチェン・イッツァを征服した。

写真:Wiki Commons By Jose Maria Obregon

マヤ文化とトルテカ文化の融合

「トルテカ帝国がユカタン半島を征服したことで、マヤ文明とトルテカ文明を融合させた新しい様式が生まれ発展した。その顕著な例がチチェン・イッツァだ」とユネスコ世界遺産のサイトに記されている。

写真:Wiki Commons By Luidger - Own work, CC BY-SA 3.0

遺跡の一部は征服前のもの

『ナショナル・ジオグラフィック』誌によれば、チチェン・イッツァを代表する遺跡のほとんどは(階段状のピラミッド、神殿、球戯場など)トルテカ帝国に征服された後に造られたが、一部はそれ以前の紀元750年頃に建設されたという。

マヤ文明とトルテカ文明の世界感

同誌は「全体として、この素晴らしい複合的建設物は、マヤ文明とトルテカ文明の世界感について多くのことを明らかにしている。また、ユカタン半島の星や太陽の動きと密接に結びついている」とした。

写真:Wiki Commons By Bjørn Christian Tørrissen - Own work

ククルカン神殿

チチェン・イッツァで最も有名な遺跡が、カスティーヨと呼ばれるククルカンの神殿だ。4面にそれぞれ91段の階段があり、最上部にある神殿の1段を足すと365段となって太陽歴の1年を表す。

写真:Wiki Commons By ATSZ56 - Own work

「ククルカンの降臨」

年に2回、春分の日と秋分の日に「ククルカンの降臨」と呼ばれる現象が起こる。太陽が西に傾くとピラミッド最下部にある蛇の石像の頭頂部が照らし出される。同時にピラミッド自体の影が蛇の胴体のような形となり頭頂部とつながると、ククルカンの全体像が現れるように設計されているのだ。

写真:Wiki Commons By Frank Kovalchek

球戯場

マヤ遺跡のほとんどに球戯場が存在するが、チチェン・イッツァのものは最大級。2つのチームに分かれ儀式的なゲームが行われ、約5.4kgのゴムボールを球戯場の両側6mの高さにある石の輪に通せば勝利となる。ゲームの勝敗で生贄を決めたとされるが、勝者と敗者のどちらが生贄に選ばれたのかは明らかになっていない。

写真:Wiki Commons De Kåre Thor Olsen - Trabajo propio, CC BY-SA 3.0

宗教および貿易の中心地

チチェン・イッツァは重要な宗教的儀式の場であると同時に、地域交易の拠点として栄えていた。しかし、謎めいた形で歴史から姿を消している。

都市の滅亡

チチェン・イッツァの住民たちは、1400年頃に都市を放棄しているが、その理由は解明されていない。Webサイト「ヒストリー・スキル」は、干ばつや森林伐採を理由にあげている。

侵略、政情不安、交易経路の変更

また侵略や政情不安、交易経路の変更などを、都市が滅亡した理由とする説もある。

写真:Wiki Commons By Teoberto Maler - Collection of Negatives and Prints, 1895-1908: Peabody Museum Archives, Harvard University

謎の解明にむけて

チチェン・イッツァでは現在も専門分野の科学者やエンジニアのチームが、謎を解明するために発掘調査を進めている。同時に世界中から訪れる多くの観光客を魅了している。

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