女優ハル・ベリー:苛められた幼少期からハリウッドでの成功、最新ロマンスまで

苦しい過去を乗り越えて
ハル・ベリーの出自
父の暴力
地元で受けた人種差別
クイーンの座
ミス・アメリカ・ティーン
ミス・オハイオ、ミス・アメリカ
ミス・ワールドのファイナリスト
シカゴで働きながら勉強
貧乏と戦いながら女優を目指す
恋人からの暴力
すこしずつ道が開ける
『Living Dolls』でチャンス到来も……
『ジャングル・フィーバー』でブレイク
映画のキャリアが開ける
『チョコレート』でオスカー
ハリウッドの殿堂入り
多難な恋愛事情
2度目の結婚も失敗
娘をめぐる争い
おとぎ話のようにはいかない
ヴァン・ハントとの恋愛
もうじき結婚式?
自由を求めるファイター
苦しい過去を乗り越えて

ハル・ベリーは自身の才覚によって、ハリウッドを代表する大女優になった。出演作ではいずれもすばらしい演技を見せ、最近では『Bruised』で監督デビューを果たした。だが、ここに至る道のりは決して平坦ではなかった。過酷な幼少期と青春を乗り越えた先に、今のハル・ベリーはある。

ハル・ベリーの出自

イングランド系の白人で看護師の母と、アフリカ系アメリカ人の病院付き添い人の父のもと、ハル・ベリーはオハイオ州クリーブランドで1968年に生まれた。母親と5歳年上の姉ハイディと暮らし、決して生活が楽とは言えない労働者地区で育つ。

父の暴力

ハル・ベリーがまだ4歳のとき、父は家を出ていった。この人物にはアルコール依存と虐待の性癖があり、ときどき家に顔を出してはハルや姉や母に暴力をふるった。1976年、ひどく叩きのめされた元妻は最後の手段に訴えることを決断し、接近禁止命令をつきつける。以来、元夫が姿を現すことはなくなった。

地元で受けた人種差別

ハル・ベリーが育ったクリーブランド界隈の住民は、大多数が白人だった。ハルは当時を思い出して、となり近所からの人種差別に苦しめられたと語っている。口々に肌の色をからかわれ、じっとこらえなければならなかった。

クイーンの座

まだ若いうちから、ハル・ベリーはその真価を発揮した。学校のクラス代表に選ばれ、学校新聞の編集長になり、プロム(卒業ダンスパーティー)では美人コンテストのクイーンに選ばれた。だが、ここでも人種主義がたちはだかる。ハイスクールのプロムクイーンにアフリカ系アメリカ人の女の子が選出されると聞いて、抗議の声があちこちで上がった。妥協の結果、彼女はクイーンの王冠を金髪の女の子と分かち合うことになったのだった。

ミス・アメリカ・ティーン

ハイスクール時代、ハル・ベリーは美人コンテストの世界に進んだ。いろいろなコンテストにエントリーし、17歳のときミス・アメリカ・ティーンに輝く。

ミス・オハイオ、ミス・アメリカ

成長するにつれて、彼女は美人コンテストで好成績をおさめることが多くなっていく。17歳で初のティーン賞を獲ると、1985年にミス・オハイオになり、翌年1986年にはミス・アメリカの2位に入賞した。

ミス・ワールドのファイナリスト

ハル・ベリーはアフリカ系の女性として初めてミス・ワールドのアメリカ代表に選ばれ、大きな注目を集めた。コンテストは1986年にロンドンで開かれ、彼女はファイナリストにも選出された。

シカゴで働きながら勉強

美人コンテストでの成功にも、ハル・ベリーは自分の理想を見失うことはなかった。夢は女優になることだった。彼女は1987年にクリーブランドからシカゴに引っ越し、芝居の勉強を始める。学資と生活費をまかなうためにファーストフード店のウェイトレスとして働いた。

貧乏と戦いながら女優を目指す

シカゴで芝居を学んでいた時期、彼女の生活はとても苦しかった。ハル・ベリーはしばしば住まいを変え、シカゴの地区を転々としながら、かつかつの暮らしで生き延びていた。生活費と学費を払ってしまえば手元にはほとんど残らなかった。頼れる人もなく、お金も尽き、ホームレス収容施設に向かったことも一度や二度ではなかった。

恋人からの暴力

彼女は昔のボーイフレンドから受けた暴力で、左耳の聴力を8割失った。のちにこの出来事を公にしたが、そのことがきっかけにもなり、ハル・ベリーは女性に対する暴力に反対する活動にたずさわるようになった。

すこしずつ道が開ける

日々の努力がようやく実を結びはじめ、ハル・ベリーはニューヨークの広告業界で女優・モデルとして活躍していく。コスメブランド「レブロン」の広告モデルになったり、TVシリーズで小さな役をもらったりした。

『Living Dolls』でチャンス到来も……

1989年、TVシリーズ『Living Dolls』でついにチャンスをつかむ。このメロドラマでは欲求不満なモデルを演じた。共演陣は、アリッサ・ミラノ、マイケル・ラーンド、リア・レミニ、アリソン・エリオット、デボラ・タッカー、デヴィッド・モスコー、マリオン・ロスなど。不幸にも、このドラマは完全な失敗作に終わった。

『ジャングル・フィーバー』でブレイク

キャリアにおける飛躍のきっかけとなったのは、スパイク・リー監督の1991年の映画『ジャングル・フィーバー』への出演だった。ハル・ベリーは麻薬中毒の女性ヴィヴィアンを演じたのだが、役を真に迫ったものにするため、撮影の行われた8週間、一度もシャワーを浴びなかった。

映画のキャリアが開ける

そこからの出世は早かった。『ブーメラン』(1992年)、『フリントストーン/モダン石器時代』(1994年)、『X-メン』(2000年)と、商業映画でその存在感を増していく。この期間、ハル・ベリーはTVシリーズの役も演じ、テレビ映画『アカデミー 栄光と悲劇』(1999年)のドロシー・ダンドリッジ役で、エミー賞とゴールデングローブ賞の主演女優賞を受賞した。

『チョコレート』でオスカー

2000年代には、『X-メン』シリーズのオロロ・マンロー/ストーム役や、『ソードフィッシュ』『007 ダイ・アナザー・デイ』『ゴシカ』『キャットウーマン』などの映画に出演したが、なんといっても大きかったのは『チョコレート』(2001年)の成功だった。この作品で、ハル・ベリーはアフリカ系アメリカ人として初のアカデミー賞主演女優賞に輝いた。

ハリウッドの殿堂入り

アカデミー賞、エミー賞、ゴールデングローブ賞といった栄冠は、ハル・ベリーが女優になるために積み重ねた努力のあかしといえる。2007年、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに埋め込まれた自身の星型の前で、ハル・ベリーは誇らしげにポーズをとっている。

多難な恋愛事情

恋愛面に目を移すと、ハル・ベリーはここでも苦汁をなめていることがわかる。1993年に野球選手のデビッド・ジャスティスと結婚するも、その3年後には離婚する。離婚のショックでうつ病になり、一時は自殺さえ考えたという。彼女は当時のつらい経験について、バーバラ・ウォーターズの2002年のインタビュー番組でとくに隠し立てすることなく語っている。

2度目の結婚も失敗

2001年1月24日、ハル・ベリーはR&B歌手のエリック・ベネイと結婚する。だが夫の浮気癖が原因で破局に至る。2005年に離婚が成立。

娘をめぐる争い

その後、カナダ人モデルのガブリエル・オーブリーと交際をスタートさせ、娘ナーラを授かる。しかし2人の仲も終わり、子どもをめぐって泥沼の争いが繰り広げられる。事態がさらなる悪化を見たのは、ハル・ベリーがオリヴィエ・マルティネスと付き合い出したときだった。2012年、ガブリエル・オーブリーはオリヴィエ・マルティネスと口論になり、両者負傷する。

おとぎ話のようにはいかない

2013年7月13日、ハル・ベリーとオリヴィエ・マルティネスは結婚する。10月には息子マセオが生まれる。だが、この結婚生活もどこかでうまく行かなくなってしまった。2015年、2人は離婚する。2017年、ロサンゼルスで開催されたグラミー賞の祭典に登場したハル・ベリーは次のように語った。「私はロマンチックな『おとぎ話』に断固抗う人間です」

ヴァン・ハントとの恋愛

しかしながら2020年、新型コロナウイルスのパンデミックのさなか、ハル・ベリーはこれを最後とふたたび愛に賭けてみる。ロックダウンの時期にミュージシャンのヴァン・ハントのことを深く知るようになり、2人の交際が始まったと『People』誌が伝えている。

もうじき結婚式?

同誌によると2人の絆は固く、2021年には法的拘束力のない誓約式も執り行ったという。2022年4月は交際開始から2周年の記念月にあたり、結婚式のベルが鳴るのもそう遠くはないというもっぱらの噂だ。

自由を求めるファイター

ハル・ベリーは多くの苦難に直面し波瀾万丈の人生を送ってきたが、だからこそ大きな喜びも手に入れてきたのだろう。彼女の本質にあるのは、ひとりのファイターの姿である。そのファイターはハリウッドスターとなり、今も毎日、自由のための戦いを継続しているのだ。

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