シングルマザーから王太妃へ:華麗なる転身を遂げたノルウェーのメッテ=マリット妃
欧州各国の王室の中でもとりわけ異色のストーリーの持ち主のひとりが、ノルウェーのメッテ=マリット王太子妃だ。平民出身でノルウェー王太子と知り合い、結婚にたどり着いたときには現代のシンデレラとして大きな話題となった。
画像:Royal Court of Norway, handout
メッテ=マリット王太子妃の両親は彼女が幼い頃に離婚している。王太妃自身は学生時代に恋人との間に子供を授かったものの、のちにシングルマザーとなった。一人で幼い息子を育てていた時に出会ったホーコンという男性こそ、ノルウェーの王太子だったのだ。
王太子妃はノルウェー南部のクリスチャンサンに生まれた。父親のスヴェン・ホイビーは地方紙のジャーナリスト、母親のマリット・ヒエッセムは銀行員で、平民階級の出身だ。
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1973年生まれのメッテ=マリットは、バレエを踊り、ベネディクト聖歌隊で歌い、ボーイスカウトに参加し、毎週日曜日には地元の教会に足を運ぶという、ノルウェーではごく一般的な子ども時代を過ごした。
画像:norwegianroyalfamily, Instagram
メッテ・マリットの両親は、彼女が11歳の時に離婚した。父親はアルコール依存の傾向があり家庭に不穏な影を落としていたことから、11歳のメッテ・マリットは母親と暮らすことを選んだ。
メッテ・マリットはスポーツ好きで活発な少女だった。子どもの頃は海岸やセテスダール渓谷で週末を過ごすことが多く、そこでセーリングを習った。さらにバレーボールの選手でコーチになったこともあり、写真で分かるようにスキーもお手のものだ。
1989年、16歳で交換留学生としてオーストラリアに渡った。メッテ=マリットは著書『Homeland and Other Stories』で当時について語っている:「オーストラリアに行くまでは、誰よりも良い子にしていました。しかし、その時私は自分の中でこう言ったのです。"これ以上は無理。ほかの人の期待にはもう応えられない"、と」
留学先のオーストラリアから帰国したメッテ=マリットは家族や社会に強く反発し、高校時代にスキンヘッドにしたことさえあるという。
やがてメッテ=マリットはアグデル大学に進学し、哲学、化学、情報工学を学び、1997年に卒業した。
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ホーコン王太子は初恋の相手ではない。メッテ=マリットは1996年にパートナー探しをするリアリティ番組『Lysthuset』に出演したことがあり、その後、実際にパートナーとなる男性と出会っている。
画像:still from 'Lysthuset,' 1996
1997年1月13日、メッテ=マリットは息子のマリウス・ボルグ・ホイビィを出産した。父親は前科を持つモルテン・ボルグという人物で、1991年に薬物取引で服役していたことを『ヴァニティ・フェア』誌が明らかにしている。
メッテ=マリットがノルウェーの皇太子と出会った時、彼女は20代半ばのシングルマザーだった。
1999年、メッテ=マリットはクリスチャンサンで開催されたノルウェー最大の音楽祭クウォートフェスティバルでホーコン王子と出会った。その後しばらくして、二人は交際を始める。
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ホーコン王太子はそれまでも交際相手を実家にあたる国王家に紹介していた。そして今回彼が両親に紹介したのは、シングルマザーのメッテ=マリットだった。
2000年、ホーコン王太子とメッテ=マリットは、オスロのアパートで同棲をはじめた。その頃の彼女は衣料品店で夏のアルバイトをしていた。
当時、メッテ=マリットはふたたび学生生活を送っていた。名門オスロ大学に入学を果たして倫理学を専攻、2000年から2002年まで学業に励んでいたのだ。
画像:Royal Court of Norway, handout
1年間の同棲を経て、二人は婚約した。ホーコン王太子は婚約前に、「彼女との結婚が許されないのであれば、ノルウェーの王位継承権を捨ててもいい」といっている。それほどメッテ=マリットは特別な存在だったのだ。
メッテ=マリット王太子妃が28歳の時に二人は結婚。王家の結婚式は2001年8月25日、オスロの大聖堂で執り行われた。
メッテ=マリット王太子妃の連れ子であるマリウスには、ノルウェーの王位継承権はない。とはいえマリウスはノルウェー王室で最も愛されている若者の一人である。
王太子妃は2002年から一年間、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院で「世界的な難民危機」や「開発理論」についての講義を受講。また、ノルウェー開発協力局に3カ月滞在し、HIVウィルスに関する政策を研究した。
2006年、王太子妃は国際連合エイズ合同計画(UNAIDS)の特別大使に任命された。国際エイズ会議では、ノルウェー代表団を率いている。
王太子夫妻の間には2人の子どもが生まれている。
2004年1月21日、長女のイングリッド・アレクサンドラ王女が誕生した。ホーコン皇太子に次ぐノルウェー王位継承第2位となっている。
画像:Royal Court of Norway, handout
イングリッド・アレクサンドラ王女は、ノルウェー王女として初めて公立学校に通った。国王夫妻が、娘に一般家庭の子どもと同じような経験をさせることを望んだのだ。
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2005年12月3日、国王夫妻にスヴェレ・マグヌス王子が誕生した。王位継承順位は第3位。姉のアレクサンドラ王女と同じく初等教育を公立学校で受けた後、オスロにあるモンテッソーリ教育の私立学校へ進んだ。
スヴェレ・マグヌス王子は姉のイングリッド王女とは異なり、「王子」の他に「殿下」という称号をもっている。
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イングリッド・アレクサンドラ王女は、ノルウェー史上二人目の女王となることが予定されている。
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幸せに溢れたロイヤルファミリーの写真。
メッテ=マリット王太子妃の長男マリウスは王室の公式ポートレートには登場しないことが多いが、もちろん家族の一員だ。上の写真は王太子一家の休日の様子。ノルウェー王室が公開したプライベートショットだ。
画像:Royal Court of Norway, handout
メッテ=マリット王太子妃と実父の関係はうまくいっていなかった。実父スヴェン・ホイビーは2005年、自身の子どもと同じくらい年の若いストリップダンサ―であるレナーテ・バースガードと再婚したほか、不適切と思われるさまざまな行動をとっていたのだ。王太子との結婚から1年後にこの父親に肺がんが見つかり、2007年に70歳で亡くなった。王太子妃はホーコン王太子とともに、オスロの病院に父親を何度か見舞っている。
2008年、メッテ=マリット王太子妃はノルウェー・ビジネス・スクールで講義を受け、ペッター・ダス賞を受賞。その後、ビジネス界でもとくに創造的とされる人々に与えられる、「世界のリーディング・シンカー」に選ばれた。
王太子妃は貧困層の人々に料理を作って配るボランティア活動を行っている。また、世界経済フォーラムの「グローバル・ユース・リーダー」にも選出された。
ノルウェー国内各地を訪れる際にはノルウェーの産業の周知に努めている。写真は王太子とともにテレマルク県にあるイネオス社の石油化学工場を視察した時のもの。
大学時代に身に着けた一般教養も王太子妃に役立っている。2017年、メッテ=マリット王太子妃は国際アリーナでノルウェー文学大使に就任した。
ノルウェーのプリンセスは、ガラパーティや公的なイベントで優雅なロイヤルファッションを披露している。
国の伝統に従い、花の王冠でドレスアップしたメッテ=マリット王太子妃。
公式行事への出席時に披露した、ホーコン王太子とのコーディネート。
スポーティなスタイルがお気に入りで、国への愛情をはっきりと口にする王太子妃。写真はホーコン王太子と、2011年にオスロで開催されたスキー世界選手権にて。
しかし、メッテ=マリット王太子妃にとって何もかもが完璧だったわけではない。2018年3月、良性発作性頭位めまい症で手術を受けることになった。
画像:Royal Court of Norway, handout
同年10月、肺線維症と診断され、公式行事への参加が制限されるようになる。
新型コロナウイルス感染症が広がったとき、王室は肺線維症を患った王太子妃の健康状態を危惧していた。
ノルウェー王室にいっそうの多様性と活気をもたらしたメッテ=マリット王太子妃。かつての苦労を乗り越え、現在は親しみやすい王太子妃として広く国民から支持されている。
2023年8月には50歳の誕生日を迎え、ノルウェー王室で祝賀会が開かれたほか、雑誌のインタビューにも気さくに答えている。これからも王室と国民の懸け橋としての活躍に期待したい。