映画史に輝く大女優、イングリッド・バーグマンの愛と人生

映画史に名を刻んだ大女優
バーグマンの代表作
史上4番目に重要な映画スター?
人々の記憶に残り続ける大女優
誕生日と命日が同じ
両親の死に彩られた幼少期
内気な素顔
ストックホルム王立劇団付属の演劇学校
スウェーデンで銀幕デビュー
ハリウッドデビューのチャンス
ハリウッドでのヒット作
アルフレッド・ヒッチコック監督のミューズに
女優としての評価
ロベルト・ロッセリーニ監督
ロッセリーニ監督との情熱的なロマンス
元夫は神経外科医のペッター・リンドストローム
ロッセリーニ監督へ宛てた運命の手紙
手紙の内容とは?
『ストロンボリ』の撮影中に芽生えた愛情
2人の結婚は大スキャンダルに
娘に会えない悲しみ
1957年にロッセリーニ監督と離婚
女優としての復活
2度目のアカデミー賞でハリウッドと和解
生涯現役
ガンと闘病しながらの撮影
映画史に残した大きな影響
映画史に名を刻んだ大女優

イングリッド・バーグマンについて語ることは、映画史を語ることに他ならない。なにしろ、ヒッチコック監督のミューズとしてアカデミー賞を3度受賞したほか、『カサブランカ』ではヒロインのイルザを演じた大女優なのだ。

 

バーグマンの代表作

バーグマンの代表先と言えば、『カサブランカ』のほかにも『誰が為に鐘は鳴る』『汚名』『ガス燈』『オリエント急行殺人事件』『ジャンヌ・ダーク』『ストロンボリ』などが挙げられる。

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史上4番目に重要な映画スター?

アメリカ映画協会によれば、バーグマンは史上4番目に重要な映画スターに位置付けられている。実際、アカデミー主演女優賞には7度もノミネートされ、そのうち3度(『ガス燈』『追想』『オリエント急行殺人事件』)は実際に賞を獲得しているのだ。

 

人々の記憶に残り続ける大女優

バーグマンの生きざまはスクリーンでの演技を越え、人々の記憶に残り続けている。

誕生日と命日が同じ

バーグマンは1915年8月29日にストックホルムで誕生し、67年後の同じ日にロンドンでこの世を去った。

両親の死に彩られた幼少期

バーグマンの幼少期は両親の死によって彩られており、決して楽なものではなかった。母親はバーグマンが3歳のときに、父親は彼女が14歳のときにそれぞれ他界してしまったのだ。その結果、叔母に引き取られることとなったが、彼女もまた半年後にこの世を去ってしまい、今度は叔父とともに暮らすこととなった。

内気な素顔

実は、素顔のバーグマンはかなり内気だったようだ。自伝『イングリッド・バーグマン・マイ・ストーリー』によれば、内気さを克服するために女優になったのだそうだ。いわく:「私は他人を演じているときのほうが自分らしくなれる」

 

ストックホルム王立劇団付属の演劇学校

母国のスウェーデンで演技に目覚めたバーグマンはストックホルム王立劇団付属の演劇学校に入学した。しかし、すぐに銀幕デビューを果たしたため、学業を続けることはなかった。

 

 

スウェーデンで銀幕デビュー

デビュー作となったのはギュンナル・スコグルンド監督の『International Match』(1932年)だった。その後、スウェーデンを代表する映画監督、グスタフ・モランデルに見出され、3年間のうちに7本もの作品に出演。

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ハリウッドデビューのチャンス

そのうちのひとつ、『別離』(1936年)がハリウッドの目に留まり、米国でリメイク版が制作されることに。撮影の指揮を執ったのはグレゴリー・ラトフ監督だった。ラトフ監督とは後に、『四人の息子』(1941年)でふたたび相まみえることとなる。

ハリウッドでのヒット作

ハリウッドデビューを果たしたバーグマンは『カサブランカ』(1942年)、『誰が為に鐘は鳴る』(1943年)、『ガス灯』(1944年)をはじめ、次々にヒット作を飛ばした。

 

アルフレッド・ヒッチコック監督のミューズに

このころ、アルフレッド・ヒッチコック監督の目に留まり、『白い恐怖』(1945年)、『汚名』(1946年)、『山羊座のもとに』(1949年)など、同監督の作品に相次いで出演した。

女優としての評価

その一方で、1945年には『ガス燈』で初のアカデミー主演女優賞を獲得するなど、映画賞のノミネーションや受賞と言った形で女優としての評価を高めるようになっていった。

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ロベルト・ロッセリーニ監督

ヒッチコック監督に引き続き、今度はイタリア人映画監督、ロベルト・ロッセリーニのミューズとなったバーグマン。同監督が撮影を指揮した『ストンボリ』(1950年)や『ヨーロッパ一九五一年』(1952年)、『イタリア旅行』(1954年)、『不安』(1954年)で、ヒロイン役を演じることとなった。

ロッセリーニ監督との情熱的なロマンス

当時のハリウッドにはまだ、不倫など許されないという風潮が残っていたが、バーグマンはロッセリーニ監督と情熱的なロマンスを演じてみせた。同監督の『無防備都市』を観て恋に落ちたバーグマンは夫を捨て、ロッセリーニ監督のもとに走ったのだ。

元夫は神経外科医のペッター・リンドストローム

バーグマンは1937年にスウェーデン系アメリカ人の神経外科医、ペッター・リンドストロームと結婚し、1年後の1938年には娘のピアが誕生していた。しかし、ハリウッド女優としてのプレッシャーや時の流れによって夫婦関係が悪化。バーグマンは離婚を求めたが、夫は認めようとしなかった。

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ロッセリーニ監督へ宛てた運命の手紙

リンドストロームとの結婚生活が事実上破綻したことを受け、1949年にバーグマンはロッセリーニ監督宛てに運命の手紙を出す。

手紙の内容とは?

その内容はこのようなものだった:「ロッセリーニさま、『無防備都市』『戦火のかなた』という2本の作品を拝見し、大変感銘を受けました。わたくしはスウェーデン出身で英語は流暢に話しますし、ドイツ語も忘れてはいませんが、フランス語はからきしだめで、イタリア語も『ティアーモ』が精いっぱいです。それでも、お役をいただけるのなら、いつでも駆けつけます」

 

『ストロンボリ』の撮影中に芽生えた愛情

ロッセリーニ監督はバーグマンに会うため米国に移り、2人はイタリアで行われた『ストロンボリ』の撮影を通じて恋に落ちた。実を言えば、ロッセリーニ監督も既婚者でありながら、女優のアンナ・マニャーニと交際しているという状態だったが、夫と娘を残してロマンスを選んだバーグマンへの風当たりはことさら強かった。

2人の結婚は大スキャンダルに

2人は結婚し、3人の子供(1950年生まれのロベルトと1952年に誕生した双子のイザベラとイゾッタ)に恵まれた、しかし、当時の社会にあってこのような恋愛は大スキャンダルであり、バーグマンは魔女扱いされたばかりか、米国では”好ましからざる人物”というレッテルまで貼られてしまった。

 

娘に会えない悲しみ

バーグマンは元夫ペッター・リンドストロームと非難の応酬を繰り広げる一方で、実の娘に会えない悲しみを味わっていた。その結果、道ならぬ恋について人々から浴びせられる批判も、一理あるのではないかと思うようになっていった。

 

1957年にロッセリーニ監督と離婚

バーグマンとロッセリーニ監督が作り上げた作品は批評の面でも興行の面でも失敗に終わる。さらに、ロッセリーニ監督の荒っぽく独占欲が強い性格も相まって、結婚生活は破綻してしまった。結局、2人は1957年に離婚。バーグマンは1年後、スウェーデン人演劇プロデューサーのラーシュ・シュミットと再婚したものの、1975年に離婚している。

女優としての復活

1956年、結婚生活に暗雲が差す中、ロッセリーニ監督は自身が非常に尊敬していたフランス人映画監督、ジャン・ルノワールの『恋多き女』にバーグマンが出演することを認めた。バーグマンはこれをきっかけに女優として復活を果たすのだ。

 

2度目のアカデミー賞でハリウッドと和解

1957年、ウクライナ出身の米国人監督、アナトール・リトヴァクの『追想』で主演を務めたバーグマンは2度目のアカデミー主演女優賞を受賞。ようやく、ハリウッドやアメリカ社会と和解することとなった。

生涯現役

その後も、演劇『ヘッダ・ガーブレル』や映画『オリエント急行殺人事件』など、米国とヨーロッパの双方で多数の演劇や映画、TV番組に出演し続けたバーグマン。イスラエルのゴルダ・メイア元首相を題材にしたTVドラマ『ゴルダと呼ばれた女』で見せた好演によって、その評価は高まるばかりだった。

 

ガンと闘病しながらの撮影

しかし、このドラマの撮影は困難を極めた。バーグマンは1975年に乳ガンと診断されており、このころにはすでに末期状態だったのだ。

 

映画史に残した大きな影響

映画史に大きな足跡を残したイングリッド・バーグマン。1982年8月29日にこの世を去ってからも、その生きざまは人々の記憶に深く残り続けている。

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