愛する家族を悲劇的な形で失ったセレブたち
キアヌ・リーブスは1999年、当時交際していた女優ジェニファー・サイムとの間に娘を授かった。しかし、未熟児だった娘は生後数時間で天に召されてしまう。それが理由のひとつとなり2人は破局。そして1年後、今度はジェニファーが交通事故で他界してしまった。
グラミー賞歌手のメリッサ・エスリッジは、21歳だった息子ベケットをオピオイドの過剰摂取で亡くしている。オピオイドとはケシの実から生成される麻薬性鎮痛薬の総称で、当時米国全土でこうした薬が乱用され、大きな社会問題となった時のことだった。
ジョン・トラボルタも何度も悲しみの底に突き落とされた一人だ。1976年にダイアナ・ハイランドと恋に落ちたが彼女に乳がんが見つかり、ジョンの献身的なサポートの甲斐もなく1年後に他界してしまった。2020年には再び同じ病気で妻ケリー・プレストンを亡くしている。しかも2009年には、クリスマス休暇で訪れていたバハマで、当時16歳だった長男を川崎病で失ってしまったのだ。
2018年7月、ティナ・ターナーの長男クレイグ・レイモンド・ターナー(59歳)が遺体で発見された。ターナーは息子が銃で自殺をはかったことに衝撃を受けつつ、「とても繊細で内気な性格で、ロサンゼルスのマンションで孤独な暮らしをしていた」と明らかにした。
シルヴェスター・スタローンの息子セイジは『ロッキー5/最後のドラマ』でロッキーの息子を演じて俳優デビューした。その後も『デイライト』で父親と共演し、映画界での活躍が期待されたが、2012年7月13日、自宅で亡くなっているのを発見された。36歳の若さで、死因は動脈硬化による心臓発作とされている。
女優で歌手のジェニファー・ハドソンは、キャリア全盛期の2008年に、家族3人が殺害されるという恐ろしい悲劇を経験している。ジェニファーの母(写真)、兄、そして当時まだ7歳だった甥を、元義兄によって射殺されたのだ。『ピープル』誌によれば、元義兄は異常に嫉妬深く、妻であったジュリア・ハドソンが別の男性から受け取ったプレゼントに激怒して犯行に及んだという。元義兄には終身刑が言い渡された。
ミネソタ・ティンバーウルブズに所属するプロバスケットボール選手のカール=アンソニー・タウンズは、新型コロナウィルスの恐ろしさを最もよく知る者の一人だろう。2020年に最愛の母ジャクリーン・クルス・タウンズを含む親族7人を、新型コロナウイルスで亡くしている。
北アイルランド出身の俳優、リーアム・ニーソンの妻ナターシャ・リチャードンソンは、2009年3月中旬に他界した。撮影のためトロントに滞在していたリーアムは、妻からスキー場で転倒したが心配しないようにとの電話を受けた。しかし、それが彼女の声を聞く最後の機会となってしまった。
『スター・トレック』シリーズのジェームズ・T・カーク役で知られるウィリアム・シャトナーは、ハリウッド・ヒルズの自宅のプールで1999年8月9日の夜、3番目の妻でまだ40歳だったネリーネ・キッドの死体を発見した。検死の結果、飲酒してプールに入り、溺れたことが死を招いたという。
シャーリーズ・セロンはNPR(米国公共ラジオ放送)で、幼い頃から父親の家庭内暴力に苦しめられていたことを明かした。それは彼女が15歳の時、泥酔して帰宅した父親が家族に襲いかかり、母親が娘と自分を守るために彼を射殺したことですべてが終わった。母親のこの行為には正当防衛が認められた。
60年代にTVシリーズ『ターザン』で主役を務めて有名になったロン・エリーも悲劇を経験している。2019年10月15日、サンタバーバラ海岸にあるホープランチの自宅で、妻バレリー・ランディーンが息子のキャメロンに刺殺されたのだ。緊急通報を受けて警察が駆け付けたものの息子はそれに対して威嚇を行い、警察の発砲を受けて亡くなってしまった。
2008年にガンで他界したポール・ニューマンも悲しい別れを経験している。最初の妻ジャッキー・ウィットとの間に生まれた息子スコットが、28歳で命を落としたのだ。スコットはバイク事故を起こし、その後ケガの痛みを抑えるために鎮痛剤の服用を始めたが、1978年、その鎮痛剤とアルコールを過剰摂取したことで亡くなってしまったのだ。
1991年3月20日、エリック・クラプトンとモデルのロリー・デル・サントの息子コナーが、ニューヨークの高層マンションの窓から転落死した。失意の中、亡き息子に捧げる名曲「ティアーズ・イン・ヘブン」を発表、音楽活動に復帰する。彼自身も「音楽があったおかげで悲しみを乗り越えることができた」としている。
元ボクサーのマイク・タイソンは、当時4歳だった娘エクソダスを亡くしている。娘はタイソンが使用していたエクササイズ・マシーンのコードに絡まって窒息し、すでに手遅れとなった意識不明の状態で、当時7歳の兄に発見されたのだ。
ジェラール・ドパルデユーは、息子で俳優のギョーム・ドパルデューを37歳の若さで亡くしている。アレクサンドル・イオルダチェスク監督の『L'enfance d'Icare』をルーマニアで撮影中、急性肺炎にかかり緊急帰国。数日後の2008年10月、パリ近郊の病院で亡くなった。
女優兼モデルのアンナ・ニコル・スミスの息子ダニエル・ウェインは、複数の薬物を組み合わせた結果致死量に達し、バハマの地で20歳の若さで他界した。アンナはその喪失感を乗り越えることができず鬱状態に陥り、処方薬の過剰摂取を原因として39歳で亡くなった。
プリンスと最初の妻マイテ・ガルシアは、1996年10月に息子ボーイ・グレゴリーを授かった。しかし、ファイファー症候群という頭蓋骨が溶解してしまう希少な遺伝子障害を抱えて生まれたため、生後6日で亡くなってしまう。オプラのトーク番組に出演したプリンスは、子どものために買ってあったものをすべて燃やしてしまったと語っている。
ピアース・ブロスナンの最初の妻カサンドラ・ハリスは、1991年に卵巣癌で亡くなった。43歳だった。その12年後、カサンドラの娘でブロスナンが養子として迎えていたシャーロットが同じ病気を患い41歳でこの世を去る。ブロスナンは「誰も人生の痛みから逃れることはできない、それが人生なのだから」と語っている。
アッシャーの義理の息子カイル・グローバー(元妻のタメカ・フォスターの息子)は、わずか11歳のときにジェットスキーに轢かれて死亡した。2012年7月6日、アトランタから80kmほど離れたラニアー湖で起こった悲劇だった。『アトランタ・ジャーナル・コンスティテューション』紙によればカイルと15歳の少女はボートにけん引された浮き輪に乗っていたところ、ジェットスキーに追突されたという。
ホアキン・フェニックスの兄は『スタンド・バイ・ミー』で一躍有名になったリヴァー・フェニックスで、ハリウッドスターとしての将来が約束されているかに見えた。しかし、ジョニー・デップが経営するナイトクラブの外で違法薬物の過剰摂取をし、23歳の若さで死亡。居合わせたホアキンは兄を救おうとあらゆる手を尽くしたが、どうにもならなかった。
ジョー・バイデン大統領の人生は、悲劇に彩られている。1972年12月、妻のネイリアと3人の子供たちが乗る車がトラックに衝突され、ネイリアと13歳の娘ナオミが命を落とした。ボーとロバートは助かったものの、2015年、ボーは脳腫瘍のため46歳でこの世を去った。
モナコ王室を構成するロイヤルメンバーであるカロリーヌ・ド・モナコ公女、弟のアルベール2世大公、妹のステファニー公女の3人は、1982年の交通事故で母親のグレース・ケリー元王妃を亡くしている。そして1990年、カロリーヌ・ド・モナコ公女は33歳の時に、2番目の夫であるステファノ・カシラギを、モナコ沖のボートレース事故で失ってしまった。