動物を愛するあまり……:人種差別発言でブリジット・バルドーに有罪判決
映画界の伝説としてだけでなく、動物愛護活動への取り組みでも知られる往年の大女優、ブリジット・バルドー。しかし、仏領レユニオン島の人々について述べた差別的な発言で起訴され、第一審に次いで控訴審でも有罪判決を言い渡されることになってしまった。
ブリジットはレユニオン島民による動物の扱い方について、人種差別的な表現で批判したため、昨年11月に行われた第一審で20,000ユーロの罰金刑を言い渡されていた。一体どうしてこのような事態になってしまったのだろうか?今回は伝説の仏女優、ブリジット・バルドーの半生を振り返ることにしよう。
1934年にパリで誕生したブリジット・バルドー。父は映画に情熱を注ぐブルジョワ実業家で、母はバレリーナになるのが夢だったという。それかあらぬか、母のアンヌ=マリー・ミュセルは娘をアーティストとして大成させるべく、厳しく教育。幼いブリジットは息苦しい思いをしたことだろう。
「ジュニアファッション」のモデルとして、15歳の若さで女性誌『Elle』の表紙を飾ったブリジット。彼女の整ったプロポーションはカメラマンたちを驚かせることとなった。
ブリジットの写真はマルク・アレグレ監督の目に留まり、オーディションに呼ばれることに。このプロジェクトは立ち消えになってしまったが、ブリジットは当時アレグレ監督のアシスタントを務めていたロジェ・ヴァディムと知り合うこととなった。そして1952年、18歳を迎えるとすぐにロジェと結婚した。
同年、ジャン・ボワイエ監督の『素晴らしき遺産』で映画デビュー。撮影は困難を極めたが、挫けることなくサシャ・ギトリ監督の歴史映画『ヴェルサイユ語りなば』をはじめ、さまざまな作品への出演を続けた。
転機が訪れたのは2年後、夫ロジェ・ヴァディム監督の『素直な悪女』で、フランスきってのリゾート地、サン=トロペの街を舞台に男たちを翻弄するヒロインを演じたときだ。大胆なシーンで女性の欲望を描き出す問題作として人気を博した。
映画公開に数ヶ月先だって開催された、1956年のカンヌ国際映画祭では一躍スターとなったブリジット。一部の批評家からは酷評されたものの、「BB(ブリジット・バルドーの頭文字)」はフランス、いや世界のセックスシンボルとなった。
ブリジット・バルドーがジャン=ルイ・トランティニャンと出会ったのは『素直な悪女』の撮影現場だった。この映画でトランティニャンはヒロインに言い寄る男を演じたが、実生活でも妻と離縁。一方のブリジットもロジェ・ヴァディム監督と離婚し、2人のロマンスが始まった。ところが、ブリジットが俳優のジルベール・ベコーとも関係を持っていたことが発覚……
1960年代を通してキャリアを積み上げたブリジットは、フランスを代表するアイドルの地位を手に入れることとなった。しかし、映画撮影中に監督たちと波乱に満ちた恋愛を繰り広げ、1960年9月には誕生日に合わせて命を絶とうとするなど、激動に満ちた10年間でもあった。
しかし、ブリジットは何とか立ち直り、輝かしいキャリアに新たな1ページを加えることができた。1963年、アルベルト・モラヴィア原作の小説を映画化した『軽蔑』で、ジャン=リュック・ゴダール監督に印象的な役を与えられたのだ。ミシェル・ピッコリと共演したブリジットは独自のフェミニズムを体現した。
1960年代に全盛期を迎えていた『ジェームズ・ボンド』シリーズ。主役007はもちろんショーン・コネリーだ。ブリジットはこのシリーズのファンだったというが、ボンドガール役は辞退。自由な女性を体現する彼女にとって、満足のゆく役ではなかったのだろう。
女優としてだけでなく歌手としても活躍したブリジット。セルジュ・ゲンズブールが作曲した歌をいくつも歌っている。芸術面のみならず恋愛にまで発展した2人の関係は、ゲンスブールの曲「イニシャルB.B.」の中で歌い上げられている。
1973年には『ドンファン』でロジェ・ヴァディム監督と再び共演を果たすこととなった。この映画は伝説の色男ドン・ファンが女性だったらというアイデアに基づいた作品で、ブリジットの演技が女性の社会的イメージを一変させたのは間違いない。
出演作が数々の成功を収める一方で、1970年代の初め頃から映画出演のオファーを断りがちになっていったブリジット。それに伴い大物監督たちから声を掛けられることも少なくなってゆき、1973年には突然引退を宣言した。
ブリジットは数十年にわたって世界中で賞賛の的だった。短いキャリアではあったが、ストレートかつ自由奔放な振る舞いと類を見ない官能性でフランス映画界を代表する女優となったのだ。
女優業を引退したブリジットは後半生を動物愛護活動に捧げることとなる。フランス屈指の影響力を持つ動物愛護活動家として長らく取り組みを続け、こちらの側面でも知られるようになった。
まず、ブリジットが声を挙げたのはアザラシ狩り反対だった。残酷な方法が用いられていることにショックを受けた彼女はジスカール・デスタン政権に働きかけ、フランスへのアザラシ革の輸入を禁止。また、1977年にはカナダを訪問し、毛皮目当てでアザラシの幼体を狩る人々に抗議した。この訪問は元映画スターの活動とあって、大々的に報道されることとなった。
1986年には組織的な動物愛護活動を推し進めるため、ブリジット・バルドー財団を設立。その際に「私はかつて、若さと美貌を男たちに与えました。今度は知識と経験、私の長所を動物たちに捧げるつもりです」という決意表明を行った。
ブリジット・バルドー財団は創設者のネームバリューもあって大きな影響力を及ぼすようになった。とりわけ、野生動物の捕獲や無益な狩猟などに反対しており、馬の断尾禁止や犬・猫の革の輸入禁止といった成果を挙げている。
2002年には、動物愛護活動が原因で殺害予告まで受けることとなった。日韓ワールドカップが開催される中、韓国における犬食文化に抗議するため韓国製品のボイコットを呼びかけたためだ。
女優人生の出発点となったリゾート地のサン=トロペはブリジットにとって終の棲家でもある。1958年に購入した邸宅「ラ・マドラーグ」がここにあるのだ。今のところ、パリ映画界とは距離を取り続けている。
2003年には著作『Un cri dans le silence』を出版。女性の社会的役割や同性愛、フランス在住のイスラム教徒移民といったテーマについて非常に保守的な立場を表明してファンを当惑させることに。
さらに、2012年の仏大統領選挙で極右政党の党首マリーヌ・ル・ペンを支持したほか、動物愛護活動に積極的だとしてプーチン露大統領を称揚するなど、物議を醸す発言も少なくない。ブリジットは思ったことをそのまま口にしてしまうのだろう。
スキャンダラスな発言や今回の有罪判決でかつての輝きに曇りが差したのは間違いない。しかし、往年の名演技は色あせることなく、60年代の象徴として私たちの記憶に残り続けることだろう。