永遠のスター、マイケル・ジャクソンの光と影
マイケル・ジャクソンは1958年8月29日、インディアナ州のゲーリーで10人兄弟(異母妹を入れると11人兄弟)の8番目の息子として誕生した。「キング・オブ・ポップ」と称され世界的スター歌手となったが、50歳の若さで2009年6月に逝去した。
マイケルは若くして名声を手にしている。兄弟ユニットの「ジャクソン・ファイブ」が成功を収めたとき、彼はまだ11歳だった。このグループはマイケルと4人の兄弟、ティト、ジャッキー、ジャーメイン、マーロンで構成されていた。
息子たちによる音楽グループを結成するというのは、父親ジョセフ・ジャクソンのアイデアだった。
1993年、マイケルがオプラ・ウィンフリーの番組に出演した際、幼少時に兄弟とともに虐待を受けていたことを告白。父親のジョセフ・ジャクソンは幼い子どもたちに暴力をふるっていたのだ。
マイケルはパフォーマンスにしくじると、父親から侮辱され、虐待を受けたと主張。
父親は暴力をふるうばかりか度重なる不倫(父親ジョセフ・ジャクソンは愛人の1人シェリル・テレルとの間に娘をもうけていた)をしており、親子関係は決して良好なものではなかった。マイケルが残した遺産が、父親の手にはまったく渡らなかったのも納得できる。
2010年、ジョセフ・ジャクソンは子どもたちに暴行を加えたことを認めたが、「今とは時代が違う」と説明し自身を正当化した。彼はがんを患い、2018年に89歳で死亡。マイケルが亡くなってからすでに9年の歳月が経過していた。
ジャクソン・ファイブでのキャリアをスタートさせた当時、マイケルはふっくらとした唇、幅の広い鼻、アフロヘアーに黒い肌を持つアフリカ系アメリカ人の子どもそのものだった。
マイケルは自身の鼻を過度に気にしており、1979年に最初の隆鼻術を受けた。本人いわく、ステージ上で転倒し、鼻を骨折したためだそうだ。
1982年に撮影されたこの写真を見れば、マイケルの顔の変化は一目瞭然だ。なおマイケルの隣に映っているのはポップ・クイーンのドナ・サマーである。
マイケルの鼻は年月とともに変化し、徐々に小鼻になっていった。外科医のパメラ・リプキンは、鼻水が皮膚に空いた穴から口腔内に入り込むのを防ぐため、しばらくの間、鼻に絆創膏を貼る必要があったと回想している。
時とともに、マイケルの肌の色は徐々に明るくなっていったように見えた。しかし、マイケル本人とその担当医は、肌を漂白する治療の噂をいつも否定していた。
マイケルの肌の色が薄くなったのは、「尋常性白斑」という皮膚病が原因だと言われている。ムラのない肌色にするため、数時間かけてメイクアップすることを余儀なくされた。
1990年代、マイケルの担当外科医と一緒に働いていたウォレス・グッドスタイン医師は『ピープル』誌にこう語っている:
「私がクリニックで働いていた2年間、マイケルは2か月おきに来院し10回~12回の手術を受けていた」
ウォレス・グッドスタイン医師はいくつかのインタビューで、マイケルは鼻とまぶた、頬、あごにインプラント挿入あるいは整形手術を施していると答えている。
エルヴィス・プレスリーの娘リサ・マリー・プレスリーとマイケルの出会いは1974年。1993年に交際を始め、その1年後にドミニカ共和国で結婚式を挙げた。2人は1996年に離婚しているが、それ以降も一緒にいる姿を目撃されている。
リサ・マリー・プレスリーは、マイケルが児童虐待と薬物中毒で訴えられたときも、彼をサポートしていた。彼女は後に『ローリング・ストーン』誌で、マイケルとの関係は決して誇れるようなものではなかったが、愛していたからこそ守りたかったと語っている。
マイケルの2度目の結婚相手はデビー・ロウだ。2人は数年来の友人であり(彼女はマイケルの皮膚科医のアシスタントだった)、1996年に結婚。デビー・ロウとの間にはパリスとプリンス・ジャクソンという2人の子供が誕生した。しかし、後に彼女はマイケルとの間に夫婦関係は一切なく、匿名のドナーからの精子提供により子どもたちを授かったと告白している。
夫婦は1999年に離婚し、デビー・ロウは子どもの親権を放棄することに合意。子供たちとの面会は、45日に1度だけだった。しかし、離婚後の3年間、彼女は年間100万ドルの支払いと、ビバリーヒルズの別荘と車を受け取っていた。
マイケルの死後、デビー・ロウは子どもたちの人生に寄り添わなかったことを後悔し、失われた時間を取り戻そうと決めたと語っている。
マイケルは以前から父親になることを切望しており、子どもたちをとても大切にしていた。実際、本人はメディアから子どもたちを遠ざけてきた。
長男プリンス・マイケル・ジャクソン1世は1997年にデビー・ロウとの間に生まれた。
これまでメディアから遠ざかっていたプリンスだが、いくつかのテレビ番組に出演し、父親の利他的な人となりについて語っている。
長女パリス・マイケル・キャサリン・ジャクソンは1998年にデビー・ロウとの間に生まれた。
マイケルの3人の子どもたちの中では、パリス・ジャクソンが最もよく知られている。モデル、女優、歌手として活躍し、『ローリング・ストーン』誌のインタビューでは、父親の死後に深いうつ状態に陥ってしまったと語っている。
デビー・ロウとの離婚後、マイケルは再び父親になることを望んだ。代理母を通して、2002年に次男プリンス・マイケル・ジャクソン2世を授かった。
第3子をブランケットに包んだマイケルは、父親としてもっとも恥ずべきことをしてしまった。生後9ヶ月の息子を紹介しようとしてベリルンにあるホテル・アドロンの5階バルコニーからファンに挨拶をした際、誤って手すりの外側まで子供を持ち上げ、あやうく転落させてしまうところだったのだ。後にマイケルはBBCの取材に答え「父親にあるまじき過ちを犯してしまった」と告白している。
ジャクソン兄弟の中でもまだ知名度の低いプリンス・マイケル・ジャクソン2世。パパラッチから顔を隠すために被っていた毛布にちなんで「ブランケット」というニックネームを付けられていたが、本人はうんざりしていたようで「ビギ」に改名したという。
マイケルの自宅兼アミューズメントパークである「ネバーランド」はピーターパンの国に着想を得た住まいで、動物園や乗り物などのアトラクションも併設している。
1993年夏、マイケルの友人であるエヴァン・チャンドラーは、当時まだ13歳だった息子ジョーダンがマイケルと不適切な関係にあったとして彼を告訴し、児童虐待の疑惑が持ち上がった。
1994年1月にマイケルの弁護士はエヴァン・チャンドラーと和解し、1,400万ドル~2,300万ドルの和解金を支払うことで解決したと伝えられた。
最初の告発の後、他の子どもたちやその保護者が同様の犯罪を受けたとしてマイケルを訴え、裁判所はネバーランドの調査を開始することになる。
2002年、マイケルはジャーナリスト、マーティン・バシール制作のドキュメンタリー番組『マイケル・ジャクソンの真実〜緊急独占放送 密着240日〜』に出演。この番組内ではマイケルと子供たちの不適切なシーンが映し出され大きな議論を呼んだ。
さらに告発は続く。その中でも、ギャヴィン・アルヴィーゾウという少年が原告として証言した「マイケルと一緒に飲酒し、罵倒されたこともあった」という主張は最も重要なものになった。裁判は2005年まで続きマイケルは無罪になるが、これらの裁判は彼の健康状態に深刻な影響を与えた。
(画像:マイケルが2003年に性的虐待容疑で逮捕された後に、サンタバーバラ郡保安官事務所から配布された資料。Getty Images)
ニュースメディアは、マイケルが22歳年下で『ホーム・アローン』の主役を演じたマコーレー・カルキンと交際しているのではと報じた。数年後、マコーレー・カルキンは疑惑を否定している。
マコーレー・カルキンがマイケルと友情を育めたのは、2人とも父親との確執を経験していたからだ。マイケルは彼の辛い体験をずっと支えてくれたのだという。なおマコーレー・カルキンは実際、マイケルの3人の子どもたちの名づけ親になるほど仲のいい友人であった。
マイケルは薬物依存の問題を抱え、1993年に公の場でその事実を認めている。当時キング・オブ・ポップは「デンジャラスツアー」をキャンセルし、リハビリセンターに入院することになった。
しかしマイケルは薬物依存を克服できなかった。ツアーや仕事で疲れ切った日々を乗り切るため、そして外見を若く見せるために鎮痛剤と薬物を常用していたのだ。
2009年6月27日、マイケルは50歳という若さで急逝した。自宅で心肺停止状態で発見されたのだ。
検死の結果、マイケルの死因は専属医コンラッド・マーレーが不眠症対策として注射した麻酔薬プロポフォールによる急性プロポフォール中毒だと判明。後にコンラッド医師は他にも鎮痛剤を投与したことを明かし、マイケル自身も他の鎮痛剤を複数服用していたことがわかった。なおコンラッド医師はマイケルの殺人容疑で逮捕されたという。
2011年、コンラッド医師は過失致死の罪で禁錮4年の量刑を言い渡された。またマイケルの子どもたちに1億ドル以上の賠償金を支払わなければならなかった。コンラッド医師は2013年に刑期の半分を終え釈放されたが、もはや医師として働くことはできない。
マイケルが亡くなった際に、子どもたちの親権を取得したのは彼の母親だ。すでに20代に成長したキング・オブ・ポップのこどもたちは、父親からの遺産を厳正な管理下で受け取ることになる。