写真で振り返るホイットニー・ヒューストンの生涯
世界でももっとも力強い歌声を持っていた歌手、ホイットニー・ヒューストン。輝かしいキャリアを築いた彼女だが、2012年2月11日に48歳の若さで急死。音楽界から広く惜しまれた。
2022年12月21日に彼女の伝記映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITHSOMEBODY』が公開され、その記憶が新たにされた。ホイットニーを演じたのはイギリスの女優、ナオミ・アッキーだ。
ホイットニーが生まれたのは1963年8月9日、アメリカのニュージャージー州ニューアークだった。母親のシシー・ヒューストンはR&B歌手として活躍しており、ディオンヌ・ワーウィックの従妹でもあった。幼いころから音楽に囲まれて育ったホイットニーはやがてニューアーク・バプティスト教会の聖歌隊に参加、母親と同様音楽の道へと一歩を踏み出した。
10代の頃にはバックボーカリストとして職業的なキャリアをスタート。ジャーメイン・ジャクソンやネヴィル・ブラザーズ、ルー・ロウルズ、マイケル・ゼーガーなどのサポートをした。また、その頃からモデルとしても注目されていた。1981年には『コスモポリタン』『グラマー』『セヴンティーン』『ヴォーグ』などの雑誌の表紙に登場していた。
さらにはテレビ番組で女優としてもデビュー。当初は『ギミー・ア・ブレーク!』(1984)や『シルヴァー・スプーンズ』(1985)などのシットコムにゲスト出演していた。ちなみに『シルヴァー・スプーンズ』では本人役での出演だ。
1983年、ホイットニーの才能がアリスタ・レコードのプロデューサーの目に留まり、初の契約を獲得。二年後にデビューアルバム『そよ風の贈り物』(原題:Whitney Houston)が発売された。「恋は手さぐり」「すべてをあなたに」「グレイテスト・ラヴ・オブ・オール」のようなヒット作が収録されていた。続く二年間はこのアルバムをPRするツアーに費やされた。
このデビューアルバムは爆発的なヒットとなり、全世界で2500万枚売り上げ、他にも多くの記録を打ち立てた。アメリカでも13xプラチナ(1300万枚のセールス)を達成し、全米レコード協会からダイヤモンド・ディスク認定を受けた。
当時、すでにマイケル・ジャクソンがポップ界におけるブラック・ミュージックの地位を確立していたこともホイットニーには追い風となった。ホイットニーは80年代におけるR&Bリバイバルを象徴する存在となり、アレサ・フランクリンの衣鉢を継ぎながらもよりポップなスタイルを追求した。
ホイットニーの力強い歌声はたちまち世界を魅了、スターとなった。1988年のソウル・オリンピックのテーマソング「ワン・モーメント・イン・タイム」を歌っているのも、ホイットニーの国際的な成功を証明している。
1987年にはセカンドアルバム『ホイットニーII~すてきなSomebody』(原題:Whitney)を発表。チャート一位を達成し批評家にも激賞された。このアルバムには「すてきなSomebody」などのヒット曲が含まれ、世界中で2000万枚以上のセールスとなった。
歴史的ヒットとなったアルバムはMVも1980年代を象徴する存在となった。カラフルなメークアップや衣装、舞台は時代のトレンドに。若きホイットニーを当時最大級のスターへと押し上げた。ピンク色の衣装に身を包んだホイットニーはかつてない輝きを放っている。
ホイットニーの活動は音楽だけにとどまらない。子供たちやエイズ患者を支援する人道プロジェクトにも参画。1989年には家のない子供や、困難な状況下にある病気の子供を支援する独自のチャリティ団体を設立している。
1990年にはサードアルバム『アイム・ユア・ベイビー・トゥナイト』を発表。前の二作ほどのヒットとはならなかったものの、このアルバムからプロデューサーのベイビーフェイスとのコラボをスタートさせ、作品にもアーバン・ソウルのテイストがみられるようになっていく。
おなじ1990年にはニュージャージー州メンダムの豪華な邸宅に居を構えた。私生活については、ホイットニーはジャーメイン・ジャクソンやエディー・マーフィー、フットボール選手のランドール・カニンガムなどとの交際が報じられていた。
だが1992年にはヒップホップシンガーのボビー・ブラウンと結婚。800人の招待客を呼ぶ盛大な結婚式を開催した。
最近になって明らかになったことだが、10代のころからの親友でホイットニーの個人秘書も務めていたロビン・クロフォードがホイットニーとかつて同性愛関係にあったことが示唆されている。このことはホイットニーの死後、ロビン自身が回顧録の中で語っている。
この関係がオープンに語られてこなかったのには、ホイットニーの両親が宗教的に厳格で関係に反対していたことも理由として挙げられる。ホイットニーの伝記映画ではバイセクシャルとしてのホイットニーが積極的に描かれており、主演のナオミ・アッキーはそのことを大変誇りに思っているという。
ホイットニーとボビー・ブラウンとの夫婦関係には問題もあったようだが、それでも1993年にはボビーとの間に娘のボビー・クリスティーナ・ブラウンが誕生した。
だがその娘も不幸な最期を迎えてしまう。2015年に22歳の若さで亡くなってしまうのだ。母親も娘も時ならぬ死を迎えてしまうというのは、悲しい偶然というほかない。
すでに1992年、結婚直前から、ケビン・コスナーと共演した映画『ボディガード』で初主演を務めていたホイットニー。娘の誕生後は音楽活動のペースを落として映画に専念していくことになる。
『ボディガード』は国際的に大ヒット。自身の歌う「オールウェイズ・ラヴ・ユー」などの収録されたサウンドトラックも歴史的な売り上げとなった。
そこから女優としてのキャリアが本格化。『ため息つかせて』(1995)、『天使の贈り物』(1996)と立て続けに主演映画が公開された。当然、主題歌はホイットニーが歌っている。
1998年、7年ぶりにオリジナルアルバム『マイ・ラヴ・イズ・ユア・ラヴ』をリリース。表題作や「イッツ・ノット・ライト・バット・イッツ・オーケイ」「イフ・アイ・トールド・ユー・ザット」などのヒット曲が収録されていた。久しぶりのアルバムは特にヨーロッパで好評を博し、400万枚以上のセールスとなった。
さらに、「ホエン・ユー・ビリーヴ」ではマライア・キャリーとの究極の歌姫デュエットが実現。この曲はアニメ映画『プリンス・オブ・エジプト』のテーマ曲として制作されたが、1998年のアカデミー歌曲賞を受賞した。
2000年にはホイットニー最初のベスト・アルバム『ザ・グレイテスト・ヒッツ』をリリース。世界で1000万枚以上を売り上げた。1998年発表の「イフ・アイ・トールド・ユー・ザット」では伝説のジョージ・マイケルと共演した。
だが、順風満帆だったホイットニーのキャリアにも陰りが見え始める。波乱に満ちた生涯を送る中で、僅かずつ、依存症に蝕まれていってしまったのだ。そしてついに、ハワイの空港で違法薬物の所持によって逮捕されてしまう。
2001年にはマイケル・ジャクソンのソロ活動30周年記念コンサートに参加。ホイットニーは「スタート・サムシング」をアッシャーとマイアと共に歌った。だがその時の様子がファンやマスコミの間で懸念を呼んだ。ステージ上のホイットニーは痩せて落ち着きがなかったのだ。続くホイットニーのアルバム、『ジャスト・ホイットニー』(2002)及び「ワン・ウィッシュ:ジ・ホリデイ・アルバム」(2003)も大きなヒットとはならなかった。
2006年にはボビー・ブラウンとの離婚が成立。同年にベスト・アルバム『アルティメイト・ホイットニー』を発表した。3年後の2009年にもアルバム『アイ・ルック・トゥ・ユー』を発表。アメリカでチャート一位を達成し、ヨーロッパでも好評を博した。健康問題のせいで声の調子も万全でなかったが、それでも2010年からワールドツアーを決行した。
2010年にはデビューアルバムにボーナス・トラックを収録した再発盤、『ホイットニー・ヒューストン:ザ・デラックス・アニバーサリー』もリリース。さらに、これまでのベスト盤も好評だったことから、新たなベスト盤『ジ・エッセンシャル・ホイットニー・ヒューストン』も発表、これもヒットとなった。この調子で続いていくかと思われた。
だが、2012年、第54回グラミー賞に参加するために滞在していたビバリーヒルズのヒルトン・ホテルで、浴槽の中で意識不明になっているホイットニーが発見された。蘇生措置もむなしく、数時間後に死亡が確認され世界中がショックを受けた。
検視報告によると、ホイットニーは心臓に疾患を抱えており、違法薬物の使用により発作が誘発されたという。また、報告ではホイットニーが浴槽で溺れてしまったと推定している。
ホイットニーの不幸な最期と薬物中毒については多くの謎が残された。2018年に発表されたドキュメンタリー『ホイットニー』において監督のケヴィン・マクドナルドは、ホイットニーが薬物中毒に陥った背景には幼少期に受けた性的虐待がある可能性を示唆した。
伝記映画『ホイットニー・ヒューストン I WANNA DANCE WITH SOMEBODY』でも、晩年の生活についてわずかながら描き出されている。一方、ホイットニーの輝かしい側面を後世に残すプロジェクトもある。2021年から、ラスベガスでホイットニーのホログラムが音楽ファンを楽しませているのだ。ホイットニーは音楽を通じていまも私たちの心に生きているのだろう。