三宅一生:日本を代表するファッションブランド「イッセイ ミヤケ」を創業
世界各国から支持を得ている日本のファッションブランド「イッセイミヤケ」。この権威あるブランドを立ち上げた故三宅一生氏の生い立ちと、その卓越した業績について掘り下げていこう。
画像:Kyodo / Kyodo News Images
『読売新聞』によれば、三宅氏は1938年4月22日に広島市で生まれた。7歳の時に、米軍が広島市に落とした原子爆弾により被爆してしまう。その影響で4年生の時に骨膜炎を発症するも、ペニシリンのおかげで命をつなぐことができたという。
しかし、半身にやけどを負った母親は被爆から数年後に死去してしまった。三宅氏も中学校に入る頃には被爆の影響で足が悪くなり始め「自分も長く生きられないだろうから、30歳か40歳までにできることをやろう。原爆を言い訳にしない」と心に決めたという。『読売新聞』が伝えた。
また、「原爆を経験したデザイナー」とレッテルを貼られることを嫌い、自身が被爆者であることは長い間伏せていた。しかし、オバマ元米大統領の核兵器廃絶を訴える演説(2009年)に触発され、自身の被爆体験を米『ニューヨーク・タイムズ』紙に寄稿することにしたと、『毎日新聞』が報じている。
同紙によれば、三宅氏が最初にデザインというものを意識したのは、爆心地近くに架けられたイサム・ノグチ氏による二つの橋「つくる」「ゆく」がきっかけだった。高校生時代にこの橋を眺め、渡りながら人を励ますデザインを心に描くようになったという。
1990年に第1回ヒロシマ賞を受賞した際には、「衣服を作ることは人間と自然への賛歌なくしてはありえない。その基本には平和を望む心がある」と語ったことを『中国新聞』が報じている。
『日本経済新聞』によれば、原爆は母親をはじめ多くの人の命を奪い、自身も生涯にわたり杖をつき足を引きずって歩いたが「でも僕は誰かを非難したくないんです。破壊するよりも新しいものを想像していたい」と語っていたという。
画像:Kyodo / Kyodo News Images
多摩美術大学を卒業後、パリへ渡りギ・ラロッシュやジバンシィといった大手メゾンで経験を積んだ。そんな中、5月革命(1968年)と呼ばれるベトナム戦争を発端としたフランス政府に対する若者主体の抗議運動に遭遇する。
『毎日新聞』によれば、その5月革命をきっかけに、限られた富裕層のためではなく、ジーンズやTシャツのような多くの人が着ることのできる服を作ろうと決意したという。こうして1970年に日本に帰国すると「イッセイミヤケ」を立ち上げた。
『週刊東洋経済』誌によれば、三宅氏はデザインにこだわるも量産を前提に着やすい服を作ることを重視していたという。そのため、美しさと機能性を共存させることに努めた。
画像:Kyodo / Kyodo News Images
そんな思いが1988年に始まったプリーツ・コレクションに詰め込まれている。これは、独自の製法で生み出される軽く伸縮性に富んだプリーツ生地のシリーズで、仕上がりの美しさはもちろん、着心地の良さや動きやすさも高く評価されている。
画像:Instagram,@pleatspleaseisseymiyake
三宅氏は2007年に退任し、滝沢直己氏にデザイナーを引き継いだ。その後もデザイナーたちが交代しながら、三宅氏のスタイルを崩さずに時代にあったイッセイミヤケの世界を創り続けている。
画像:Instagram, @isseymiyakeofficial
2010年秋冬シーズンから登場したバックブランド、バオバオ・イッセイミヤケも世界的なヒットとなった。三角形のピースを組み合わせ、様々な形を構築する革新的なバックだ。
画像:Instagram, @baobaoisseymiyake_official
バオバオは中に物を入れることで平面から立体に変化する。その自由自在でオリジナリティあるデザインと、軽く使い勝手のよい機能性により、世界中で爆発的人気となった。
画像:Instagram, @baobaoisseymiyake_official
『ブルームバーグ』誌によれば、米アップル創始者の故スティーブ・ジョブズ氏は、日本の工場で誰もが制服を着て働いているのに感銘を受け、イッセイミヤケの黒のハイネックを自身の「ユニフォーム」として愛用し、100枚以上所有しているという。
画像:Kyodo / Kyodo News Images
三宅氏は2010年に文化勲章、2016年にはフランスのレジオンドヌール勲章コマンドール位を受賞している。各国にファンを築いた三宅氏は2022年8月、肝細胞がんのため84歳で人生の幕を閉じた。
画像:Kyodo / Kyodo News Images