ブルース・リー:栄光と悲劇に彩られた32年の人生

映画界のレジェンド
サンフランシスコ生まれ
俳優としてのキャリアの始まり
香港へ引っ越し
詠春拳の修行
アメリカの大学へ
大学生活
独自の武術スタイルを開発
ブルース・リーの妻
ブルース・リー武述学校
師範としてのブルース・リー
2本指の腕立て伏せとサイドキック
TVプロデューサーとの出会い
『グリーン・ホーネット』
ハリウッドで最初のつまずき
フィルモグラフィー
『ドラゴンへの道』
『燃えよドラゴン』
ブルース・リーの死因
葬儀と埋葬地
本物の伝説
『死亡遊戯』
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』
ブルース・リーの娘
ブルース・リーの哲学
セルフモチベーション
ブルース・リーが残した名言
映画界のレジェンド

世界にカンフー・ブームを巻き起こし、映画界のレジェンドとなったブルース・リー。1940年生まれで、生きていれば現在80代になっているはずだが、残念なことに若くして亡くなってしまった。

サンフランシスコ生まれ

ブルース・リーは、1940年11月27日、サンフランシスコの中華街で生まれた。辰年の辰の刻(午前8時)であったという。本名は李振藩(リー・ジュン・ファン)。

俳優としてのキャリアの始まり

ブルース・リーは、生後わずか2ヵ月でテレビシリーズの『Tears of San Francisco』に、3ヵ月の時にサンフランシスコで製作された映画『金門女』に出演した。ブルース・リーの両親は、地元のアートシーンで活躍し、父親は広東演劇の役者兼歌手だった。

香港へ引っ越し

ブルース・リーがまだ幼い頃、家族は香港に移住した。そこで武術学校に通い始めた。

詠春拳の修行

香港で父親と一緒に太極拳を習いはじめたブルース・リー。13歳になると、中国武術の詠春拳の使い手であるイップ・マン(葉問)のもとへ弟子入りした。師からは詠春拳だけでなく、哲学も教わった。

アメリカの大学へ

18歳の時、ブルース・リーはアメリカの市民権を得るためにアメリカへ戻った。師匠イップ・マンの影響を受け、シアトルのワシントン大学で哲学を学んだ。

大学生活

大学の学費を稼ぐために、ブルース・リーは中華レストランでキッチンアシスタントとして働いた。その後、大学のクラスメートにカンフーを教え始める。

独自の武術スタイルを開発

カンフーを教えながら、ブルース・リーは独自の武術スタイルを開発した。「相手の攻撃を防ぐ道」を意味する「ジークンドー」と名付けられた、詠春拳よりもさらに実戦的な武術だ。

ブルース・リーの妻

カンフーを教えていた生徒の中に、イギリス出身のリンダ・エメリーがいた。2人は交際をはじめるも、ブルース・リーがカリフォルニア州オークランドに引っ越さなければならなくなったので遠距離恋愛となった。1963年に2人は結婚し、2年後に長男のブランドン、そして1969年に長女のシャノンを授かった。

ブルース・リー武述学校

1960年代初頭、ブルース・リーはシアトルに自身の武術学校「 the Jun Fan Gung-Fu Institute」を構えることにした。その後さらに2校、オークランドとロサンゼルスに1校ずつ開校した。

師範としてのブルース・リー

ブルース・リーは、独特の方法で武術を教えた。授業はある種のパーソナルトレーニングであるべきだと考えていたリーは、クラスの人数を出来るだけ少なくした。

2本指の腕立て伏せとサイドキック

1964年、ブルース・リーは、ケンポー・カラテの創始者であるエド・パーカーが主催する大会に参加した。ケンポー・カラテは日本武術などを起源とするアメリカの格闘技だ。この大会でリーは驚異的な動きを披露し、世間を驚かせた。指2本で行う腕立て伏せや、自分の体重の2倍の相手ですら倒すことができそうなサイドキックだ。

TVプロデューサーとの出会い

この大会の観客の中に、テレビプロデューサーのウィリアム・ドジエがいた。リーの技量に感嘆したドジエは、以降リーに役を与えたり、ドラマや演技の授業を提供するようになった。

『グリーン・ホーネット』

1966年2月、ブルース・リーはTVシリーズ『グリーン・ホーネット』の準主役であるカトー役に抜擢され、俳優のヴァン・ウィリアムズと共演した。このシリーズを通して、ブルース・リーの新しい武術スタイルが欧米諸国に披露された。そして1969年、アメリカ映画『かわいい女』で映画デビューを果たした。

ハリウッドで最初のつまずき

1971年初頭、ブルース・リーはテレビ業界への進出を試み、『The Warrior』シリーズを2人の大物プロデューサーに提案するが却下された。その後、ワーナー・ブラザーズがこのアイデアを受け入れたが、リーが思い描いていたような形ではなかった。ワーナー・ブラザーズはシリーズを『燃えよ!カンフー』に改名し、主役にはブルース・リー本人ではなく、デヴィッド・キャラダインを選んだ。

フィルモグラフィー

ブルース・リーは、生涯5本の映画にしか出演していない。少ないように思えるが、この5本の作品でブルース・リーは映画界でのキャリアを確固たるものにし、伝説を作ることに成功した。

『ドラゴンへの道』

1972年、ブルース・リーは『ドラゴンへの道』で製作、監督、脚本、主演を務めた。映画はローマで撮影され、コロッセオでのチャック・ノリスとの死闘はブルース・リー作品を代表するものとなった。

『燃えよドラゴン』

ブルース・リーが最後に出演した映画は『燃えよドラゴン』で、死の2週間前に撮影が終了していた。そして、リーの死後6日目に公開された。

ブルース・リーの死因

1973年7月20日、ブルース・リーは32歳の若さで急逝した。医師によれば、死因は鎮痛剤に対するアレルギー反応による脳浮腫だった。いくつかの陰謀説は、ブルース・リーの死は3人組の中国マフィアによる殺人、または呪いだとしている。

葬儀と埋葬地

香港とシアトルで行われた葬儀には、ブルース・リーに追悼の意を表すべく何万人ものファンが集まった。中国の伝統衣装を着せられた遺体は、シアトルのレイクビュー墓地に埋葬された。そして20年後、ブルース・リーの息子ブランドン・リーが映画撮影中の発砲事故で死亡し、父親の隣に埋葬されることになった。

本物の伝説

ブルース・リーは、映画の成功だけでなく、人生哲学によっても後世に多くを残した。ブルース・リーのファンから集まった寄付金10万ドルで、香港に2.5メートルの銅像が建てられている。

『死亡遊戯』

このスニーカーは、ブルース・リーが『燃えよドラゴン』の後に完成させる予定だった映画『死亡遊戯』で履いていたものだ。ブルース・リーの死から数年後、代役をたてて完成させた『死亡遊戯』が、1978 年に上映された。そして、このアディダスのスニーカーは、オークションに出品された。

『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

2019年に公開されたクエンティン・タランティーノ監督の映画にブルース・リーが端役で登場。しかし、同作鑑賞後、娘のシャノン・リーは「とても不快だった」とコメントした。ブルース・リーの描写が浅薄で、観客たちがそれを見てあざ笑っているように思えたという。

ブルース・リーの娘

シャノン・リーは、父親が繊細で哲学的な人だったことを多くの世代に覚えていてほしいと考えている。

ブルース・リーの哲学

ブルース・リーは俳優や格闘家としてだけでなく、哲学者としても傑出していた。彼はヘーゲルやマルクスのような哲学者の思想に惹かれていた。

セルフモチベーション

ブルース・リーは、日々の目標や長期的な目標を日記に書き、モチベーションを高めることを好んでいた。その中には、「アメリカ初の東洋一の高給取りのスーパースターになる」という目標もあった。

ブルース・リーが残した名言

ブルース・リーの最も有名な言葉の 1 つは「友よ、水になれ」だった。

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