ピエール・カルダン生誕100周年:前衛デザイナーの軌跡

今年で生誕100周年
ピエール・カルダンが築いた帝国
イタリア生まれ
サン=テティエンヌでキャリアをスタート
ジャン・コクトーの『美女と野獣』
『おしゃれ探偵』
「バブルドレス」で一躍有名に
アジアンテイストからメンズまで
初のプレタポルテ・コレクション
より多くの人に届けたい
世界的な成功を収める
マスコミの寵児?
老舗レストラン「マキシム」のオーナーに
500を超えるライセンス商品
多くの人に身近な商品づくり
あらゆる商品をデザイン
モード界の反発を受ける
雇用者数は世界で20万人
フランス美術アカデミー会員へ
芸術愛好家
最後のコレクション発表
降ろされた人生の幕
ファッションアイコン
今年で生誕100周年

2年前に98歳で亡くなったフランスのファッションデザイナー、ピエール・カルダン。生きていれば今月100歳の誕生日を迎えていた。

 

ピエール・カルダンが築いた帝国

世界的に有名なピエール・カルダンだが、彼がプレタポルテからオートクチュールまで、さらに家具のコレクションも含め、巨大なデザイン帝国を築いていたことをご存じだろうか?文字通りの万能アーティストだったピエール・カルダンのキャリアを振り返ってみよう。

イタリア生まれ

ピエトロ・コスタンテ・カルディンは、1922年7月2日、北イタリアのトレヴィーゾで生まれた。6人兄弟の末っ子で、両親は戦争で職を失った農民だった。一家は1920年代半ばにフランスに移住した。

サン=テティエンヌでキャリアをスタート

幼い頃からファッションに大きな魅力を感じていたピエトロは、やがて仕立て屋の見習いを始め、サン=テティエンヌ、次いでヴィシーの町で働いた。第二次大戦がおわると、大都会パリで運を試すことを決意。

ジャン・コクトーの『美女と野獣』

最初に就いたのは、パリの革新的デザイナー、ジャンヌ・パキャンのアトリエでの仕事だった。1945年にはジャン・コクトーの映画『美女と野獣』の衣装や仮面を手掛けるなど、本格的に活動をスタート。その後、ジャン・コクトーからたびたび協力を求められるようになり、映画『オルフェ』などの衣装を担当した。

『おしゃれ探偵』

1946年にクリスチャン・ディオールの立ち上げに参加。3年間勤めた後、1950年に舞台衣装製作のパスコーというメゾンを買い取り、自身初となる会社を立ち上げた。1961年、ジャン・ドラノワ監督の映画作品『クレーヴの奥方』の衣装を手掛け、1967年には英国のTVシリーズ『おしゃれ探偵』の主人公ジョン・スティード役の衣装をデザインした。

「バブルドレス」で一躍有名に

1953年に初のオートクチュール・コレクションを発表、大きな成功を収めた。翌年には、歴史に残る「バブルドレス」で世界的に高い評価を手に入れることになった。

アジアンテイストからメンズまで

1954年、カルダンはパリで最初のブティックをフォーブール=サントノレ通りにオープンさせた。1957年にクチュール組合に加入。その翌年に初来日を果たし、アジアンテイストをデザインに取り入れたほか、当時はほとんどいなかった日本人をファッションモデルとして起用して話題を呼んだ。ミューズとなったのは松本弘子だった。

初のプレタポルテ・コレクション

1959年、ピエール・カルダンはパリのデパート「プランタン」を舞台に最初のプレタポルテのファッションショーを開催。モードの民主化を実現するとともに、近未来を思わせる独自のスタイルを周知することに成功した。

より多くの人に届けたい

カルダンは一般の人々も手に届くような服作りをしたいと考えた。しかし、彼のこうした考えは当時のオートクチュール界に物議を醸すことになった。

世界的な成功を収める

1960年には紳士プレタポルテ・コレクションを発表、メンズファッションに革命をもたらした。次いで子供服のデザインにも着手し、1968年にショップをオープン。1970年代以降、カルダンがスタートさせたプレタポルテは世界中に広まっていった。

マスコミの寵児?

その頃、メンズラインは米国まで輸出されるようになり、レディスラインはすでに世界各地で話題になっていた。さらに、世界で初めてゴビ砂漠やモスクワの「赤の広場」でファッションショーを開催するなど、マスコミが喜ぶ話題も数多く提供。1980年代以降、ピエール・カルダンのショップは世界各国に展開されていった。

老舗レストラン「マキシム」のオーナーに

1981年にはパリの老舗レストラン「マキシム」を買収、レストランオーナーになった。さらにいくつもの香水を発表し、化粧品コレクションを立ち上げ、雑誌を創刊するなど、きわめて有能な経営者としての才能も発揮していった。

500を超えるライセンス商品

1980年代にはファッション分野はもちろん、あらゆる分野でデザインを手がけ、ライセンス商品の数は500を上回るといわれた。それと引き替えに、ピエール・カルダンのアイデンティティが希薄になったことは否めなかった。

多くの人に身近な商品づくり

ピエール・カルダンは自身が手掛けるデザインを広く展開し、多くの人にとって身近なものにしたいと考えた。そのため、カルダンがデザインした商品をメーカーが製造し、売り上げの何割かをデザイナーに還元するという、現在のライセンスビジネスをおこしたのだ。

あらゆる商品をデザイン

ピエール・カルダンはこうした新たな生産システムを最大限に活用し、自身のデザインをさまざまな市場に浸透させていった。その結果、カルダンは飛行機、タオル、食器からカーテンポールまで手がけることで、ライセンス商品の数においても収益においても世界一のブランドとなった。

モード界の反発を受ける

しかし、あまりに商品が多様化すると品質が低下するのが常というもの。その一方で、イヴ・サンローラン、グッチ、ディオールといった他の高級メゾンは徐々にライセンス商品の数を減らすことで、高い品質を保っていた。そのため、ピエール・カルダンは「もはやオートクチュールやラグジュアリーの世界とは無縁」としてそっぽを向かれるようになってしまった。

雇用者数は世界で20万人

ピエール・カルダンは、ブランドの最盛期には20万人を雇用し、100億フラン(約1兆4千億円)の売上高を誇る一大帝国を築き上げた。

フランス美術アカデミー会員へ

1992年、ピエール・カルダンは、服飾デザイナーとして初めてフランス芸術アカデミー会員に選出された。

芸術愛好家

芸術愛好家でもあったピエール・カルダンは1971年にパリの劇場「テアトル・デ・ザンバサダー」を改装し、アート空間「エスパス・ピエール・カルダン」をオープンし、世界各国のアーティストに制作や展示活動スペースを提供した。また、南仏の町ラコストにあるサド侯爵が所有していた城を買い取り、大規模な修復を行い、音楽や演劇のフェスティバルを創設している。

最後のコレクション発表

2016年7月、94歳になったピエール・カルダンは、生前最後となる新作コレクションを南仏で発表した。

降ろされた人生の幕

2020年12月29日、ピエール・カルダンは98歳でこの世を去り、翌年1月2日、パリのモンマルトル墓地に埋葬された。

ファッションアイコン

フランスのプレタポルテを世界に広めた人物として記憶されたピエール・カルダン。もちろん、インナーウェアのロゴとして有名なブランドであることも忘れてはならない。

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