歴代の「イットガール」たちを振り返る:マリリン・モンローからゼンデイヤまで
「イットガール」の正確な定義はあいまいだが、社交界で称賛される魅力的な女性を指すことが多い。この言葉は20世紀初頭にイギリスで生まれ、1904年の短編小説でラドヤード・キップリングが使用している。「いわゆる美しさでもなく、必ずしも話がうまいわけでもない。ただ『それ(IT=特別ななにか)』としか言いようのない。だが通りを歩くだけで、一度その姿を目にした男たちの記憶に残り続ける女性がいるのだ」とキップリングは書いている。
元祖「イットガール」であるイヴリン・ネスビットは、1900年代初頭のアメリカのモデルであり、コーラスガールや女優としても活躍していた。また、酩酊状態の建築家スタンフォード・ホワイトにレイプされたと証言した「世紀の裁判」でも有名である。ホワイトはその後、イヴリンの夫ハリー・ソーに射殺されている。
画像:'Miss N' Photoportrait of Evelyn Nesbit, 1903, Gertrude Käsebier / Wikimedia
イギリス出身の無声映画女優であるブレンダ・ディーン・ポールは、1920年代ロンドンの青年運動「ブライト・ヤング・シングス」の常連でもあった。流産の後モルヒネ中毒になり、長い間薬物中毒で苦しんだことから、度々タブロイド紙で話題となった。
画像:チェルシーでの「フリークパーティー」。右から2番目がブレンダ・ディーン・ポールである。
無声映画で活躍し、後にトーキー映画も出演するようになったクララ・ボウは、1927年の映画『あれ(It)』で「イット」という言葉を浸透させた。映画の中では、健康的でセクシーな魅力溢れる女性を熱演。クララ・ボウ自身は、1920年代アメリカの「ジャズ・エイジ」を象徴する典型的なフラッパーであり女優だったと言えるだろう。
「黒いヴィーナス」と呼ばれたジャズ歌手のジョセフィン・ベーカーは、魅力的なダンスと歌唱力で観客を魅了した。パリに住むアフリカ系アメリカ人として人種問題に向き合い、「ジャズ・エイジ」のシンボルとも言える存在だった。
元祖ブロンド美女ジーン・ハーロウは、1930年代初期の代表的なセクシーシンボルだった。映画に対する規制が厳格化される前の「プレコード・ハリウッド」時代のアメリカ映画界を代表する人物で、『爆弾の頬紅』にも出演。この映画は、ハーロウ、もしくはクララ・ボウをモデルにしていると言われている。クララは腎不全の結果、26歳という若さでこの世を去ることとなる。
第二次世界大戦時代の「イットガール」ラナ・ターナーは、セーター姿が人気を博し「セーターガール」という愛称でも親しまれた。また50年にわたるキャリアを通じて、モデルや女優としての活動はもちろんのこと、他の「イットガール」と同じく波乱に満ちた私生活で注目を集めた。
グロリア・ヴァンダービルトは大富豪ヴァンダービルト家の唯一の相続人として、世間の注目を集めていた。1940年代から1960年代にかけてはニューヨーク社交界の常連で、新聞にも取り上げられた。
時代を代表する「イットガール」マリリン・モンローの美しさと類まれなる才能は、多くの人々を魅了した。数多くの映画に出演し、結婚と離婚を繰り返したことから、当時の新聞によく取り上げられた。刹那的な一面と早すぎる死により、「イットガール」としての地位は不動のものとなったと言えるだろう。
1960年代に「イットガール」の座に君臨した、女優兼ファッションモデルのイーディ・セジウィックは、アンディ・ウォーホルと親しかった。しかしその時期が過ぎると、女優としてのキャリアが再び軌道に乗ることはなかった。28歳のとき、ドラッグの過剰摂取でこの世を去ることとなる。「イットガール」であることと、幸せで健康であることはイコールではないらしい。
数少ない非モデル出身「イットガール」の一人であるビアンカ・ジャガーは、1970年代初めにローリング・ストーンズのボーカル、ミック・ジャガーを射止め一躍時の人となった。世界中を飛び回るジェットセッターとしてのライフスタイルや慈善活動、パーティー好きとしても知られていた。ニューヨークのディスコ「スタジオ54」の顔的存在でもある。
マリサ・ベレンソンは70年代の魅力を体現した人物だと言えるだろう。トップモデルから女優に転身した彼女は、『バリー・リンドン』や『キャバレー』で多くの人々を魅了した。ニューヨークのナイトライフの中心であったアンディ・ウォーホルのような有名人との交流は、ファッション界と映画界におけるマリサ・ベレンソンの「イットガール」としての立場を確立させた。
モデルや女優、歌手、そしてファッションアイコンとして多彩な活躍を見せるグレイス・ジョーンズは、1970年代から1990年代にかけての「イットガール」だった。前衛的なスタイルで注目を集め、パーティーの常連でもあった彼女は、上流社会で最も写真に撮られた女性の一人だった。
ゴールディ・ホーンは1970年代を通じて映画界で引っ張りだこだったが、『プライベート・ベンジャミン』でアカデミー賞候補となり、本物のスーパースターとなった。恋多き女としての一面も、多くの注目を集めた。
ソマリア出身のスーパーモデル、イマンは、1970年代から1980年代にかけてのファッションアイコンであり「イットガール」として活躍した。ウォーレン・ベイティとの交際が噂となり、バスケットボール選手のスペンサー・ヘイウッドと結婚。ヘイウッドと離婚後は、当時の「イットボーイ」であるデヴィッド・ボウイと再婚した。
同じ頃に彗星の如く現れたもう一人のスーパーモデル、ケイト・モスは、1990年代に不健康に見えるほど痩せたスタイルで世界中のランウェイを制して一躍有名になった。実際に依存症に陥ったこともあり、パパラッチの厳しい目線にさらされながらも、積極的に表舞台に立ち続けた。
90年代のグランジやインディーズ映画で活躍した、ウィノナ・ライダー。影のある雰囲気と『リアリティ・バイツ』などの映画での役柄は、当時の時代背景を捉えていたと言えるだろう。残念ながらその私生活は、平穏とは程遠いものだった。
インディーズ映画で活躍したクロエ・セヴィニーは、1990年代の「イットガール」でもあった。バンド「ソニック・ユース」のミュージックビデオへの出演で人気を集め、幅広い交友関係やファッション、そしてその形容しがたい魅力で確固たる地位を築いた。
ニューヨークのソーシャライトとなったティンズリー・モーティマーは、その完璧なスタイルで2000年代の社交界を席巻。その後、『リアル・ハウスワイブス・オブ・ニューヨーク』に出演し、「イットガール」としての地位を確立した。
イギリス出身のモデルおよびTVプレゼンターであるアレクサ・チャンは、2000年代初頭の「イットガール」であり、2013年には「IT」という本まで執筆している。そのファッションとヘアスタイルは注目を集め、彼女は多くのデザイナーのミューズとなった。
ミーシャ・バートンは、2003年に米情報番組『エンターテインメント・トゥナイト』によって、「イットガール」ともてはやされるようになった。ドラマ『The O.C.』で有名になり、ジェームス・ブラントの「Goodbye My Lover」やエンリケ・イグレシアスの「Addicted」といったミュージックビデオにも出演を果たしている。
音楽活動によってリアーナは一躍有名になったが、彼女が現代の「イットガール」になったのは、ファッションや美容への高い関心、そして慈善活動への取り組みによるものだった。レッドカーペットでのファッションから普段の装いまで、リアーナが触れるものすべてがトレンドになった。
カーダシアン家の一員であるケンダル・ジェンナーは、シャネルやヴィクトリアズ・シークレットなどのショーに出演し、トップモデルとして名を馳せた。その高い身長や類まれなる美貌、そして優れたファッションセンスで、ハイブランドとポップカルチャーの両方で人気となった。
2010年代半ばに登場したジジ・ハディッドは、瞬く間にファッション界の中心的存在となった。カリフォルニア・ガールとしての魅力や、著名人との交際や派手な交友関係から、当時の「イットガール」の1人となった。
Z世代の代名詞ビリー・アイリッシュは、あっという間にトップスターまで上り詰めた。独特のスタイルや心に残る歌声、そしてその個性で、多くの人の心を掴んだ。先進的かつ中性的なそのファッションは、新たなトレンドとなった。
女優や歌手、そしてファッションアイコンとしても注目を集めるゼンデイヤは、ディズニー・チャンネル出身の子役からトップ女優の座に上り詰めた。『ユーフォリア/EUPHORIA』や『DUNE/デューン 砂の惑星』などの作品での高い演技力、そしてレッドカーペットでの見事な立ち振る舞いにより、「イットガール」としての地位を確立させた。