無声映画時代にハリウッドを席巻した日本人俳優、早川雪洲とは
無声映画時代のハリウッドで日本人俳優が大スターの地位にあったことをご存知だろうか? 早川雪洲(せっしゅう)である。彼はハリウッド草創期を代表するセクシー俳優かつプロデューサーであり、サイレント映画が廃れてトーキーの時代になってからも活躍した。キャリアを通じてさまざまな役を演じたが、しかしそのどれにもまして興味深いのは彼本人の生き様かもしれない。
早川雪洲が当時どれほどの人気を誇っていたかを示す、格好の逸話がある。あるとき、劇場に着いた車から早川が降りたところ、ちょうど足元に水たまりがあった。すると女性たちは毛皮のコートをわれさきに脱いで地面に敷いたという。
写真:1918 promotional photograph of Japanese actor Sessue Hayakawa (1889–1973), by: Fred Hartsook, via Wikimedia
早川雪洲の本名は早川金太郎といい、千葉の南房総に生まれた。父は地元の漁師のリーダーで、実家はかなり裕福だった。
写真:1918 promotional photograph of Japanese actor Sessue Hayakawa (1889–1973), by: Fred Hartsook, via Wikimedia
早川は海軍大将になることを期待されていた。ところが、友人たちにけしかけられて潟湖の底まで素潜りしたところ、鼓膜が破れてしまった。この怪我がたたって海軍の入隊検査ではねられ、父に恥をかかせてしまう。
写真:Naval ensign of the Empire of Japan
自伝によると、当時18歳の早川は土蔵に鍵をかけて閉じこもり、切腹を企てたという。ところが犬が吠えたてて企てが露見し、辛くも両親に助け出されることになった。
写真:‘Tousei buyuuden: Takasaki Saichirou’. Ukiyo-e woodblock print of warrior about to perform seppuku., 1850s, via Wikimedia
切腹未遂の傷が癒えると、両親は早川をアメリカへ旅立たせた。ハリウッドに伝わる逸話によると、早川はシカゴ大学のフットボールチームで活躍したが、あるとき柔術の技で相手選手を倒して反則を取られたという。
早川はその後カリフォルニアに赴き、演技に出会う。芸名を「雪洲(Sessue)」に決め、当時有力なプロデューサーだったトーマス・H・インスと出会い、そしてのちに妻となる女性と知り合う。ツル・青木(青木鶴子)である。トーマス・H・インス制作の日本を主題にした映画で共演を重ね、1914年に結婚した。
写真:The Dragon Painter, Haworth Pictures
それからまもなく早川はセシル・B・デミル監督の『チート』(1915年)に出演する。映画の中で、早川が演じる日本人美術骨董商は上流階級の白人女性を凌辱する。紳士の仮面をかぶった悪人(しかも性的魅力に満ちている)というこのキャラクターはアメリカの女性たちに強く訴えかけ、早川雪洲は大スターになった。
写真:'The Cheat,' Lasky
第一次世界大戦がはじまり映画づくりの中心地がヨーロッパからアメリカへ決定的に移ってからも、そして早川雪洲が紛れもない大スターになってからも、早川は魅力的な悪役以外の役をなかなか得られずにいた。ならばと彼は、自身の映画制作会社「ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション」を1918年に設立する。同社は1918年から1922年にかけて20本の映画を制作し、アジア系の俳優たちに活躍の場を与えた。
アジア系の男性俳優には当然のように悪役が割り振られていた当時のハリウッドにあって、早川が設立した制作会社はそういったステレオタイプをきっぱりと拒絶した。エキゾチックな魅力に屈する純粋な米国女性、という構図に頼らない映画作りをしたのである。この時期に同社が制作した一本に『The Dragon Painter』(1919年)がある。ずっと時代が下って2014年、アメリカ議会図書館がこの映画を「文化的・歴史的・芸術的にきわめて高い価値を持つ」としてアメリカ国立フィルム登録簿に追加することになった。
写真:The Dragon Painter, Haworth Pictures
早川の演技スタイルはその頃の無声映画スターたちとははっきり異なっていた。無声映画の定番は大げさな身振りと目まぐるしく変わる表情である。早川はそこに禅と「無心」の境地を持ち込み(彼は禅の造詣が深かった)、その新しいアプローチに批評家も観客も魅了されたのだ。
ところで、早川より一回り年下の俳優ルドルフ・ヴァレンティノも似たような不満を感じることになる。ヴァレンティノはイタリア出身なので、ハリウッドでは外国人扱いだったのだ。どちらもとりわけ女性から高く支持されたが、悪役以外を演じる機会はなかなか与えられなかった。
1920年代に入ると日本は軍国主義に強く傾いていき、米国では排日運動が盛り上がった。早川もその影響を免れず、ハリウッドで肩身の狭い思いをするようになった。日本人の役も白人の俳優がメイクをして演じるようになっていったのだ。そこで早川は舞台俳優になろうと考え、ニューヨーク、そしてフランスに渡り結局はヨーロッパで大人気を博すことになった。英国王ジョージ5世とメアリー王妃の前でも一幕劇を披露したという。
写真:'Breakfast at Tiffany's' trailer, Paramount Pictures
1931年にはハリウッドに戻り、トーキー映画『龍の娘』(1932年)に出演する。
日本に帰国し何本かの映画と舞台に出演したあとで(そのなかには原節子主演の日独共作映画『新しき土』がある)、彼はふたたびフランスにわたった。第二次世界大戦が勃発しナチス・ドイツがパリを占領したときにも(1940年)パリに留まり、当時手がけていた映画制作を続行しようとした。
連合軍によりパリが解放されると(1944年)、日本人の早川はナチス・ドイツへの協力を疑われるが、調査の結果その疑惑は晴らされ、彼はハリウッドに復帰する。その頃すでにハリウッドでは、ヘイズ・コード(映画制作についての自主的な倫理規定)が遵守されるようになっており、異なる人種間の性的関係を描くことは不可能になっていた。
写真:'Tokyo Joe (1949),' Colombia Pictures
早川自身の言葉によると、映画俳優としてのキャリアの頂点はデヴィッド・リーン監督の『戦場にかける橋』(1957年)だったという。この演技で早川はアカデミー賞とゴールデングローブ賞の助演男優賞にノミネートされた。
1961年、早川の妻である青木鶴子が日本で亡くなった。死因は腹膜炎、69歳だった。
第二次大戦後のハリウッドでは、早川はハンフリー・ボガート主演の『東京ジョー』(1949年)をはじめとする映画や舞台に出演した。その後は日本映画や先に触れた『戦場にかける橋』などに出演したが、松竹映画『純情二重奏』(1967年)を最後に俳優業を引退し、禅の研究に打ち込んだ。
こうして早川雪洲はハリウッド草創期における最大のスターのひとりとなったものの、映画史を語るときにその名前は忘れられがちである。「みずからの映画会社を立ち上げるほどの異例な成功を収めたという事実を前にすると、早川雪洲を抜きにしてハリウッド映画史をふりかえることは由々しき誤りだといえる」と、映画研究者のカーラ・レイ・フラーは書いている。
写真:'The Beggar Prince, Haworth Pictures Corporation, via Wikimedia
じつは、早川雪洲の伝記映画がかつてハリウッドで進行中だった。脚本も出来ていたのだが、しかしその脚本を手がけた大島渚の突然の死により企画は凍結されてしまったのだ。
写真:'The Cheat,' Lasky