デヴィッド・ボウイとイマンの愛:死後に明かされるロマンティックなエピソード
ロック界のレジェンド、デヴィッド・ボウイと妻イマンは80年代から90年代にかけて、もっとも話題を集めるカップルのひとつだった。最近になり、イマンは故デヴィッド・ボウイとの新たなエピソードを明かしている。
デヴィッド・ボウイ(デヴィッド・ロバート・ジョーンズ)はロンドン南部のブリクストンに1947年1月8日に生まれた。その69年後、ボウイはニューヨークで家族に囲まれてこの世を去った。
その悲しいニュースが届いたのは、デヴィッド・ボウイの69歳の誕生日から二日目のことだった。その年の誕生日にあたる2016年1月8日には、彼の25枚目の(そして最後となった)スタジオアルバム『ブラックスター』がリリースされた。
デヴィッド・ボウイは肝臓がんと闘いながら音楽制作に励み、アルバム『ブラックスター』を発表してまもなく亡くなったのだ。
人生の最後の26年間、ボウイのそばにはつねに妻の姿があった。ソマリア出身のスーパーモデル、イマン・アブドゥルマジドである。
90年代、白人モデルと有色人種のモデルに支払われるギャラの不公平をなくそうとする運動が盛り上がる。モデルとして活躍していたイマン・アブドゥルマジドは当事者としてその動きにいちはやく反応し、平等化の動きに加わったという経歴をもっている。
デヴィッド・ボウイの死後、イマンはしばらくメディアから遠ざかっていた。深い悲しみに暮れながらも、二人の娘であるレクシー(2000年生まれ)をしっかり守ってやる必要があったのだ。
2021年、夫の死から5年経って、イマンは心の内を明かし、これまで語られることのなかった驚くべき愛のエピソードを語った。新たな香水のラインも売り出した。その名も「ラブ・メモワール」。どこまでもボウイからインスパイアを受け、どこまでもボウイに捧げるような香水である。
『ピープル』誌のビデオインタビューで、イマンは二人の初めての出会いを語っている。それは1990年のことで、ボウイのコンサートに出かけて行ったイマンは会場に着くのが遅れてしまい、ステージ裏を回りこんで席へ案内されたという。そこでボウイとばったり出くわした。彼はステージに上がるところで、一瞬立ち止まって彼女と握手をかわし、「今日は楽しんでいってください」と声をかけた。
イマンは『ピープル』のインタビューで、彼女がデヴィッド・ボウイの大ファンで、よくコンサートに出かけて行ったことを明かしている。当時すでにモデルとして名を揚げていたイマンは、ボウイの楽屋に招かれることもしばしばだったが、そのたびに申し出を断っていた。コンサート後の楽屋の集まりは彼女にとってなんとなく気詰まりなように思われたのだ。
イマンはその後、写真家のグレッグ・ゴーマンと知り合う。イマンは知らなかったが、グレッグ・ゴーマンはボウイの写真も撮っていた。ゴーマンは彼女にヘアドレッサーのテディー・アントリンを紹介する。ある日、テディー・アントリンの誕生日パーティーということでイマンが会場のレストランに行くと、アントリンとそのパートナー、そしてボウイが彼女を待っていたという。このささやかな会食は、イマンに一目惚れしたボウイが仕組んだ遠回しのデートだったのだ。
ボウイの気持ちを知り、イマンはためらったという。ロックスターと深い関係になるのは危険なように思われた。しかし本当の「デヴィッド・ジョーンズ」を知るにしたがって、つまり歌手としてのボウイではなくその人間性を知るにつれて、その考えは変わっていった。「彼はとても優しく、紳士的で、家族のことを第一に考えていた」と、イマンはそのころの印象を語っている。
ある日のデートで、二人が街を歩いていると、イマンの靴紐がほどけたという。デヴィッドはその場にひざまづくと、ほどけた靴紐を結び直した。その様子を見ながら、「この人こそ私の運命の相手だ」とイマンは確信したという。最もロマンティックな一瞬として、イマンはこのエピソードをあげている。
イマンとボウイはその一年後、1992年4月24日にフィレンツェで結婚した。ふたりはそれから離れることはなかった。イマンはボウイが2016年に死ぬまで、そばに付き添った。
『フォーブス』によると、ボウイの死後にはおよそ1億ドルの資産が遺された。
その遺産はおおむね丸ごと、彼の家族に遺された。妻のイマン、娘のレクシー、息子ダンカン・ジョーンズである。ダンカン・ジョーンズは最初の妻アンジーとの間に1971年に生まれた息子だ。ココという相性で知られるボウイの長年のアシスタント、コリーヌ・シュワブにも200万ドルが分与された。