初代スーパーマン、クリストファー・リーヴの栄光と悲劇
クリストファー・リーヴについて語ることは、スクリーンで見ることのできる歴代最高のクラーク・ケント(スーパーマン)について語ることにほかならない。しかしまた同時に、カメラの回っていないときのヒーローの姿を、命にかかわる大事故の前後について語ることでもある。
1995年5月27日、クリストファー・リーヴは落馬事故によって大怪我を負う。
クリストファー・リーヴは1985年の映画『ジャクリーン・ビセットのアンナ・カレーニナ』の役作りで乗馬を習ったことがきっかけで、その魅力にすっかりはまってしまった。そして1995年5月、バージニア州カルペパーでおこなわれた障害飛越競技の最中、馬がふいに足を止め、クリストファー・リーヴは勢いよく宙に投げ出されてしまった。
馬上の彼は、そのとき3つの連続障害(トリプル)に取りかかろうとしていたが、馬が急に立ち止まったため頭から落馬したのである。頚椎の骨が2つ折れ、脊髄が切断された。
彼の四肢は麻痺し、足や手が動かせなくなったばかりか、自力で呼吸もできなくなった。彼が乗っていた馬は(写真の馬)、美しい栗毛の純血種で、名前はイースタン・エクスプレス、愛称バックといった。
駆けつけた救急隊員たちはまず人工呼吸をおこなわなければならなかった。救急車に乗せられ、シャーロッツヴィルの病院に運ばれる途中、彼は意識を回復した。
リーヴは適切な手術を受けて、おかげで左手の指を動かすことができるようになった。とはいえ、ずっと車椅子の生活となり、つきっきりの看護と人工呼吸装置が必須になってしまった。
クリストファー・リーヴはニュージャージー州にあるケスラー・リハビリテーション研究所で6ヶ月間リハビリに取り組み、ニューヨークの自宅に戻った。
そして事故から10ヶ月後の1996年3月、彼はアカデミー賞の授賞式に登場してスピーチを行い、集まった人々の喝采と感動を呼んだのだった。
トム・ハンクスやウィノナ・ライダー、ジョン・トラボルタ、メリル・ストリープ、その他多くの人々のあたたかい拍手(なかには涙を浮かべる人も少なくなかった)に迎えられてクリストファー・リーヴは登場した。彼はそのスピーチのなかで、子供のころにキューブリック監督の『博士の異常な愛情』を観た体験についてふれながら、映画が社会問題にコミットできる可能性について語った。
そのスピーチによって健在を示したリーヴは、脊髄を損傷した自分のような人々の置かれた状況を世間に知らしめるべく、尽力しはじめた。また、脊髄再生研究の推進など、さまざまな活動に携わるようになった。
最高のスーパーマンを演じたことでリーヴが広く認められていた時代は、その当時でもすでに昔のことになっていたが、ここでは少し時間を巻き戻し、リーヴ版スーパーマンの誕生のときに立ち帰ろう。彼はもともと突出した身体的資質を備えていたが、その役を演じるにあたり、さらに丹念な準備を重ねた。スーツの下に詰め物を使わなくてもすむように、たくましい筋肉をつけたのである。
また、役柄に合うように髪を黒く染め(彼の地毛は金髪)、オリジナルのDCコミックスのクラーク・ケントにさらに似せるために、黒縁メガネをかけた。
すでに名声を確立している多くの俳優がこの役に名乗りをあげたが、プロデューサーたちは、スーパーマンに命を吹き込む俳優は新人がいいと判断した。そうすれば他のキャラクターとまぎれてしまうことがないからだ。リーヴを起用したことは正解だった。観客の反応は良く、彼が出演したスーパーマンの映画シリーズは大成功をおさめた。
スーパーマンのイメージがどうしても強く、そのイメージから抜け出すことに苦労することもあったクリストファー・リーヴだが、スーパーマン以外の役でもファンたちに記憶されている。たとえば、1980年の映画『ある日どこかで』のリチャード・コリヤー役などである。
彼は学生時代に舞台作品で演技をはじめ、1976年にイーニッド・バグノルド原作の舞台『重力の問題(A Matter of Gravity)』でブロードウェイデビューを果たす。主演はキャサリン・ヘプバーン。リーヴはその甥の役を演じた。ヘプバーンは新米時代の彼の面倒をよく見てあげて、ときに有益な助言を与えた。
ブロードウェイで働くことは性に合っていたが、お金はあまり稼げなかった。彼は演技をやめようかと考えていたのだが、まさにそのとき、スーパーマンの役者を探しているという話を聞いたのだった。
人生を一変させた落馬事故の後も、彼は忙しく活動した。1997年にはテレビ映画『フォーエヴァー・ライフ/旅立ちの朝』で監督デビューを果たす。エイズ患者の青年が家族のもとに帰り、人生の最後のときを過ごすという筋書きだ。1998年にはジェフ・ブレックナー監督のテレビ映画『裏窓』に出演する。ヒッチコックの『裏窓』のリメイクである。
役者としては他にも『ザ・プラクティス ボストン弁護士ファイル』や『ヤング・スーパーマン』といったテレビシリーズに出演し、監督としてもさらに『ブルック・エリソン物語(The Brooke Ellison Story)』を手がけた。これは四肢麻痺の人として初めてハーヴァード大学を卒業した少女、ブルック・エリソンの回想録をもとにして作られた伝記映画である。リーヴの死から2年後の2006年には、彼がダニエル・サンピエールとコリン・ブレイディとともに共同監督をつとめたアニメーション映画『Everyone’s Hero』が公開された。
1998年には自伝『車椅子のヒーロー あの名俳優クリストファー・リーブが綴る「障害」との闘い(原題:Still Me)』を出版した。本はオーディオブックとしても発表され、1999年のグラミー賞の最優秀朗読アルバムに選ばれた。
その自伝では、リーヴが妻に胸中を打ち明け、自殺を考えていると語る場面が描かれている。だが、妻ダナ・モロシーニの愛情にあふれる言葉を受け、彼は生き続ける決意をしたのだった。
妻のダナ・モロシーニはいつも夫に付き添い、クリストファー・リーヴ財団の設立に大きく貢献した。脊髄損傷やその他の障害を抱える人々のための治療の研究を推進することを目的とした財団である。ダナは2006年に肺がんで亡くなるが、翌年の2007年、その功績に敬意を表して財団の名称が「クリストファー&ダナ・リーヴ財団」に変えられたのだった。
2004年10月9日、クリストファー・リーヴは自宅で心臓発作を起こし、翌10日に病院で亡くなった。床ずれの悪化はあったものの、それはあまりに急な死だった。
10月9日、彼は心臓発作を起こして昏睡状態となり、ニューヨーク州マウント・キスコのノーザン・ウェストチェスター病院に搬送された。そして10日、52才で亡くなったのである。
クリストファー・リーヴの人生はそのようにして終わりを迎えた。私たちに遺されたのは、『スーパーマン』をはじめとする彼の映画作品と、四肢麻痺という困難にくじけそうになりながらも立ち向かう、一人の人間の真摯なメッセージなのだろう。