米女優シャーリーズ・セロンが過ごした過酷な子供時代
アカデミー賞をはじめ数々の賞に輝いたハリウッド女優、シャーリーズ・セロンの栄光のキャリアがスタートしたのは、意外なことに撮影スタジオではなく、ロサンゼルスのある銀行支店だった。
ほぼ全財産にあたる500ドルの価値があったが、有効期限の切れてしまっている小切手を現金化しようとして窓口のスタッフと喧嘩になり、支店長をあっけにとらせたすらりと背の高いティーンネイジャー。それが未来の映画スターだった。
そのとき、この南アフリカ出身の少女が稀に見るパワーと才能の持ち主であることに気づいたのは、その場に居合わせたスカウトマンだけだった。彼は、銀行を出てまだ興奮冷めやらぬシャーリーズ・セロンにいきなり仕事をオファーしたのだが、この男こそジョン・ハートやレネ・ルッソといった俳優たちの代理人を務めるジョン・クロスビーだった。
支店長もスカウトマンも、銀行に居合わせた人々も、この少女、シャーリーズ・セロンが数年後に世界を席巻する女優になるとは知る由もなかった。
米国で大成功を収めたシャーリーズ・セロンだが、一歩間違えれば故郷ヨハネスブルグ(南アフリカ)の農場で命を落としていたかもしれない。
ハリウッド史上稀に見る美人女優シャーリーズ・セロンだが、子供の頃からそうだったわけではない。いわく「母に綺麗だと言ってもらったことはありません。『牛の搾乳は済ませた?』とかそんなことばかりです」
農場での過酷な日々に加えて、父の飲酒癖がヨハネスブルグでの生活をさらに困難なものにしていた。NPR放送のインタビューに対し、シャーリーズ・セロンは「私が育った地区に住んでいた人々の75%は亡くなりました。南アフリカでは誰もが銃を所持しているんです」と回想している。
しかし、シャーリーズ・セロンの場合、問題は家庭内にもあった。それが頂点に達したのは1991年6月21日。その日、酔って帰宅した父が当時15歳のシャーリーズと母ゲルダを殺すといって脅したのだ。
二人が隠れた部屋のドアに向かって銃を乱射する父親。シャーリーズの母は逃げ場がないことを悟り、覚悟を決めた。シャーリーズ自身がNPR放送に語ったところによれば、「父の放った銃弾が一発も命中しなかったのは奇跡でした。数秒前まで二人でドアに寄りかかって父が入ってくるのを防ごうとしていたんです」とのこと。
一方、シャーリーズの母は家にあった別の銃を取り出して躊躇なく夫に発砲。こちらは命中し、シャーリーズの父は即死した。
事件について尋ねられるたびに、シャーリーズ・セロンは「後ろめたいことなどない」と明言している。警察は正当防衛だとして、二人を釈放した。
その日、ヨハネスブルグに留まっていては危険であることを理解した二人はある決断を下した。それはシャーリーズがニューヨークに行き、モデルとして働きつつダンサーを目指すというものだった。
しかし、運命はさらなる試練を与えた。膝の怪我によって、ダンサーになるという夢が打ち砕かれてしまったのだ。まだ若かったシャーリーズは薄暗いアパートの一室の引きこもってしまったという。
それを知った母のゲルダは、なけなしの財産から小切手を送り、娘を𠮟咤激励した:「弱音を吐くなら南アフリカに戻ってきなさい」そう言って、500ドルの小切手をシャーリーズに送った。そして、この小切手がすでに触れた銀行の一件につながることになる。
しかし、女優としての道は厳しかった。エージェントに見出されたとはいえ、代り映えのしないブロンド美女の役しか回ってこず、シャーリーズはうんざりし始めていたのだ。
そこで、若きシャーリーズはロサンゼルスの安いモーテルに引っ越し、2年後にはエージェントとの契約を打ち切ることにした。そして、広告業界をはじめとする他の道を探り始めたのだった。
90年代半ばといえば、シンディ・クロフォードやクラウディア・シファーをはじめとするスーパーモデルたちの活躍により、広告やファッションが芸術の域にまで高められていた頃だ。20歳のシャーリーズ・セロンはここで活動の場を見出すことになった。
1995年、酒造メーカー、マルティーニ社の広告に採用されたシャーリーズ・セロン。指で唇に触れる仕草、イスに裾をひっかけたニットドレス、そのまま歩き去るセクシーな後ろ姿で世界を魅了し、ついに名声を手に得ることができた。
彼女の知名度と才能を考えれば映画出演も簡単だったろう。しかし、シャーリーズは自身の外見がステレオタイプにはまりやすいことを理解していた。実際、『モンスター』でアイリーン・ウォーノス役を手に入れるには悪戦苦闘しなくてはならなかった。
苦労の末にこの役を獲得したシャーリーズ・セロンは大胆にイメージチェンジし、映画史に残る見事な演技を披露した。それにより2004年のアカデミー賞ではほぼ満場一致で主演女優賞に輝いた。
夢を追い求めて苦労を重ねたシャーリーズ・セロン。それが大きく報われたのは、ネルソン・マンデラが彼女に「南アフリカを世界地図の仲間入りさせてくれた」ことを感謝した時だ。シャーリーズ・セロンが言葉を失ったのはこの時が初めてだったという。
一方、シャーリーズが南アフリカ訛を捨て、ロサンゼルスに引越したことに対し、母国からは批判の声が上がっていた。しかしキャリアのピークを迎えていたシャーリーズは無意味な批判に耳を傾けず、人生を謳歌する術を身に着けていた。
しかし、その後の出演作『イーオン・フラックス』、『ハンコック』、『告発のとき』等では思うような成功を得られず、3年間女優業を休むことを決定。その期間にジャクソンとオーガストという2人の養子を迎えている。
さらに、性的マイノリティの権利や動物の権利擁護、HIV予防活動をはじめとする社会活動に専念。国連ピース・メッセンジャーとして様々な協力を行った。
2011年に映画復帰を果たしたシャーリーズ。しかも、変幻自在の今をときめく大女優として戻ってきた。アクション映画や恋愛物のヒロインから『スノーホワイト』の邪悪な女王ラヴェンナ役まで、どんな役でも説得力のある演技を見せている。
2015年には『モンスター』のアイリーン・ウォーノス役を超える演技で高い評価を受けた:『マッドマックス 怒りのデスロード』のインペラトル・フリオーサ役だ。ハリウッドの女性賛歌ともいえるこの役は、最近の映画史に残る名作となった。
シャーリーズが高額ギャラ女優の仲間入りを果たしたのもこの頃だ。『ワイルド・スピード』シリーズ(8と9)の出演料はそれぞれ1500万ドル、さらに『スノーホワイト/氷の王国』でも1000万ドルだ。
ところで、シャーリーズの母、ゲルダ・マリッツはどうなったのだろう?実は、今ではシャーリーズの家の隣で暮らしており、映画のプレミアやイベント、パーティの常連として、娘と並んで姿を見せている。
シャーリーズ・セロンを2度にわたって支えた母ゲルダ。今も娘をサポートし続けている。
シャーリーズ・セロンの性格をよく表す逸話がある:『マッドマックス 怒りのデスロード』の撮影中、共演者のトム・ハーディと折り合いが悪かったシャーリーズは、決して歩み寄ろうとはしなかったらしい。しかし、7ヶ月にわたる撮影で2人がぶつかり合ったことは、演技の質を高めることにつながった。
クランクアップに際して、トム・ハーディはシャーリーズに献辞入りのイラストをプレゼントした。そこにはこう書かれている:「あなたは悪夢みたいだけれど素晴らしい人だ。これから寂しくなりそうだ」そのイラストは今もシャーリーズのオフィスに飾られているという。