トランスジェンダー女性がグラミー賞を初受賞!
トランスジェンダーの女性としては初めて音楽業界を代表する賞、グラミー賞を獲得したキム・ペトラス。ケルン出身でドイツ音楽シーンのスターだったが、これによって世界的なポップの殿堂入りを果たすこととなった。そこで、今回はキム・ペトラスとグラミー賞2023に注目だ。
キム・ペトラス(30)はサム・スミスとともにデュオでグラミー賞2023に出場、「Unholy」という曲でついに最優秀ポップ・デュオ/グループ・パフォーマンス賞を手にした。
今回の受賞についてペトラスは、「今や伝説となったトランスジェンダーの先人たち全員に感謝したいと思います。彼女たちが道を切り開いてくれたおかげで、私は今夜この舞台に立つことができたのですから」とコメント。
ペトラスはさらに、「私はドイツの片田舎の高速道路脇で育ちました。でも、母は私を女の子として扱ってくれたんです。母のサポートがなければ、私はこの場に立つことができなかったはずです」と付け加えている。
ペトラスが性別適合手術を受けたのは16歳のとき。この種の手術ケースとしては最年少だった。
1992年にケルンで誕生したキム・ペトラス。出生名はティム・ペトラスだった。
幼いころから自分がトランスジェンダーだと気付いていたペトラスは、2歳のときにはすでにスカートとドレスを身に着けていた。これを見た両親は当初、一時的なものだと考えたようだ。しかし、ペトラスが5歳で女の子になりたいと伝えたとき、母はサポートを約束してくれたという。
『ツァイト・オンライン』紙のインタビューでペトラスは「私はずっと自分が女の子だと感じていました。5歳のころから自分の身体がイヤだったんです。自分の性別と折り合いがつかず、自由になりたいと思っていました」とコメント。ハサミで性器を切り取ろうと、部屋で悪戦苦闘したことを明かしている。
両親からのサポートがカギだったと語るペトラス。いわく:「母は、もう少し大きくなったら性別適合手術を受けられると教えてくれました。そのことが大きな心の支えになりました。そして、10歳のころからメンタルクリニックに通うようになったんです。理解のある両親がいたことはとても幸運でした」
しかし、そんなペトラスも当初は医師の無理解に直面して苦労したそうだ:「ヘンな医者たちに『キミはおかしいよ』と言われたこともあります」
『デア・シュピーゲル』誌によれば、11歳になったペトラスは2003年にようやくフランクフルトの小児クリニックの院長だったベルント・メイェンブルクから正式な診断書を受け取ることができたという。メイェンブルクは「決意が揺らがないのは明らかでした。診察を受け始めたのは幼いころでしたが、以来ずっと一貫しているんですから」としている。
服装を自分で選べるようになったペトラスだが、そのことが学校ではイジメにつながってしまったようだ。『ツァイト・オンライン』紙のインタビューによれば、「ラテックスの服とドクターマーチンの靴を身に着け、女の子みたいな格好で登校していた」せいで、イジメのターゲットになってしまったのだった。
けれども、ペトラスはイジメにもめげずに自分のスタイルを守り通したという。そして、『ツァイト・オンライン』紙のインタビューでは、「誰も私にファッションをやめさせることはできませんでした。私は、給食を投げつけられるときだってオシャレしていたかったんです」と答えている。
学校でのイジメと自身の身体への違和感から、自殺を考えることもあったというペトラス。同紙のインタビューでは「私は男の子として生きていくのがイヤだったんです」としている。
そんなペトラスの救いは音楽だった。英語の習得に時間を費やし、英語で作詞するようになったのだ。
ペトラスがホルモン療法を受け始めたのは12歳のときだ。まず、第二次性徴を抑え、続いて女性らしい身体へと姿を変えていったのだ。
13歳になったペトラスはStern TVに出演、両親とホルモン療法について語り合った。また、14歳のときにはVOX放送の『Man or Woman?』という番組に参加し、世界的に知られるようになる。番組内でペトラスは早期の性別適合治療を推進するよう訴えた。
そして、15歳のときには、オリジナルの曲や動画をSNSに投稿するようになった。
ペトラス初のシングルとなった「Last Forever」は2008年にリリースされ、YouTubeやMySpaceで大ヒットすることに。
2008年には16歳の若さでミュージシャンデビュー。初の商業作品となるシングル、「Fade Away」をリリースした。
しかし、ドイツでプロデューサーを探すのは簡単なことではなかった。実際、ペトラスは『ツァイト・オンライン』紙上で、プロデューサーに「キミの曲はアメリカ的すぎて、ドイツではウケないよ」と言われたことを回想している。
2011年、当時19歳だったペトラスは渡米を決意。
ロサンゼルスに移り住んだ当初、ペトラスにはお金もなければ頼れる人もいなかったという。『ツァイト・オンライン』の記事によれば、ソングライターとして働き、スタジオのソファで眠る暮らしを送っていたようだ。しかし、あるとき転機が訪れる。人気歌手のファーギーがペトラスの曲を歌うことになったのだ。残念ながらこの曲がリリースされることはなかったが、ペトラスには契約が舞い込むようになった。
そして、有名プロデューサーたちと一緒に仕事をするチャンスを得たペトラスは、自ら歌手としてもパフォーマンスをするようになっていった。
2016年には24歳の若さで、自身のレーベル「BunHead Records」を設立。
2017年、25歳を迎えたペトラスを転機が待ち受けていた。ニューシングル「I Don't Want it at All」がSpotifyの「トップ50グローバル」にランク入りしたのだ。『ニューヨーク・タイムズ』紙はペトラスを「キラキラのプリンセス」と形容し、レディー・ガガと比較するほどだった。
その後の数年間、ペトラスは次々に新曲をリリースしていったが、これらの曲はあくまでシングルであり、アルバムを制作する予定はなかったという。2019年まで続いたこの期間を本人は「Era 1("第一期")」と呼んでいる。
同時に、トランスジェンダーのミュージシャンとして、音楽業界にはびこる偏見と闘わなくてはならなかったようだ。『ツァイト・オンライン』紙のインタビューの中でペトラスは、「ロサンゼルスの有名なレコード会社で重役を務める女性に、トランスジェンダーが流行っているから自称しているのかと尋ねられたことがあります。また、神の摂理に反するとして、私と一緒に働くのを断る人もいました」としている。
けれども、逆境にもめげず、2019年には自身のレーベルから初のアルバム『Clarity』をリリース。米国とヨーロッパでツアーを展開した。
そして3年後、「Unholy」でグラミー賞を獲得。
ペトラスがサム・スミスとともにリリースしたこの曲は英国と米国のヒットチャートでトップを飾ったほか、その他の国々でもトップ5入りを果たしている。
トランスジェンダーの女性がグラミー賞を獲得したのは今回が初めて。ペトラスはこれについて「さらなる多様性の前触れ」だとしている。
ペトラスはこの曲について、家族がありながらストリップを楽しむ男のことを歌ったものだとコメント。
そんなペトラスは現在もロサンゼルスで暮らしながら、新たな楽曲の制作に勤しんでいる。