カンヌ映画祭の知られざるハプニング史:上映会のブーイング、大女優とメディアの対立......
5月14日から25日にかけて行われている今年のカンヌ映画祭。スクリーンのスターたちが大階段に姿を現すこの晴れ舞台で、歴史に残るエピソードやスキャンダルを振り返ってみましょう。
1939年、ルイス・リュミエール会長のもとで開催されるはずだった幻の第1回カンヌ映画祭。しかし、ナチスドイツのポーランド侵攻で人々の間に激震が走る中、注目を集めることはできず、たちまちキャンセルに。
カンヌ映画祭の最高賞が「パルム・ドール」と呼ばれるようになったのは、第1回開催の9年後、1955年のことだ。パルム・ドール第1号となったのは映画『マーティ』のデルバート・マン監督。カンヌ映画祭の輝かしい歴史はここから始まったと言ってよいだろう。
1960年のカンヌ映画祭で波乱を巻き起こした、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『情事』。一向に進まないストーリーだったため、上映会はブーイングと冷笑に包まれたという。しかし、挑戦的な内容は賛否両論を呼び、観客たちは激しい議論を繰り広げた。
翌年のカンヌ映画祭では、最終日に上映されたルイス・ブニュエル監督の『ビリディアナ』が台風の目となった。宗教の偽善を糾弾する挑発的なシーンが含まれていたため、バチカンの批判を招いたのだ。また、監督の母国、スペインではフランコ政権による検閲の対象となった。
1973年に話題をさらったのはマルコ・フェレーリ監督の仏伊合作映画『最後の晩餐』だ。快楽の限りを尽くして死んでゆく男4人の物語に、嫌悪感を抱く観客も少なくなかったのだ。
1980年の審査委員長を務める予定だったデンマーク人監督、ダグラス・サーク。しかし、新人アシスタントの手違いで、アメリカの俳優、カーク・ダグラスがその役目を引き受けることになってしまった。
その3年後、1983年のカンヌ映画祭では、デヴィッド・ボウイ主演の映画『戦場のメリークリスマス(公開当時のタイトルは"Furyo")』がパルム・ドールを獲得するという下馬評がなされていた。しかし、実際にグランプリに輝いたのは『楢山節考』だった。
また、この年のカンヌは波乱続きだった。『殺意の夏』の主演女優、イザベル・アジャーニが制作陣との記念撮影を拒否したのだ。これに対し、映画祭の写真家たちは彼女の写真を撮ることを拒んで仕返し。アジャーニが大階段を上り始めるとカメラを床に放り出してしまった。
1991年のカンヌ映画祭で審査委員長を務めたロマン・ポランスキー監督。彼は自分の作品とスタイルが似た、コーエン兄弟の『バートン・フィンク』にパルム・ドールを与えようと画策した。ルールを無視して投票妨害を行ったのだ。その結果、目的は達せられたが、映画祭の仕組みに問題が残ることに。
ポランスキー監督が『バートン・フィンク』(パルム・ドール、監督賞、主演男優賞を総なめ)で前例を作ってしまったことから、ルールの厳格化を余儀なくされたカンヌ映画祭。以来、同一の作品に複数の賞が与えられることはなくなった。
1997年の第50回カンヌ映画祭で審査委員長を務めることになったのは、女優のイザベル・アジャーニ。会食の席では自分の食習慣を全員に押し付けたため、ティム・バートン監督をはじめとする審査員たちは、カブやパプリカ、合成肉の食事をする羽目に。
一方、ミヒャエル・ハネケ監督の『ファニーゲーム』もスキャンダルを巻き起こしていた。凄惨な暴力を扱った作品であり、擁護しがたいと感じた参加者も多かったようだ。
1998年のカンヌ映画祭で審査員グランプリに輝いた『ライフ・イズ・ビューテイフル』のロベルト・ベニーニ監督。審査委員長を務めたマーティン・スコセッシ監督に敬意を表してひざまずき、観客を沸かせた。
2001年に創設された「パルム・ドッグ賞」。これは、コンペティション部門に出品された映画の中で、優れた演技を披露した犬に送られる賞だ。実際、人間にしか賞が授与されないのは不公平だろう。
2009年、カンヌ映画祭はラース・ファン・トリアー監督(デンマーク)の『アンチクライスト』で大荒れとなった。主演のシャルロット・ゲンズブールとウィレム・デフォーが破滅的な衝動に突き動かされるカップルを演じた作品だ。いずれにせよ、カンヌの歴史に残る一幕となった。
2年後、シャルロット・ゲンズブールとキルスティン・ダンスト主演の新作映画『メランコリア』で、再びカンヌ映画祭にやって来たラース・ファン・トリアー監督。しかし、アドルフ・ヒトラーに共感を示す発言をしたため映画祭から追放されてしまった。
『アデル、ブルーは熱い色』で第66回カンヌ映画祭のパルム・ドールに輝いたアブデラティフ・ケシシュ監督。数年後の2019年、彼の新作『Mektoub, My Love: Canto Uno』がふたたびカンヌで上映されたが、ナイトクラブで撮影されたこの作品には盗撮と言わざるを得ないシーンが多く含まれていた。このとき初めてフィルムを目の当たりにした主演女優のオフェリー・ボーは、映画が終わる前に立ち去ってしまった。