カンヌで名誉賞に輝いたマイケル・ダグラス:波瀾万丈の人生
今年のカンヌ国際映画祭で、俳優のマイケル・ダグラスが名誉パルムドールを受賞した。『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』(1984)や『ウォール街』(1987)、『危険な情事』(1987)、『氷の微笑』(1992)など、80年代から90年代の数々の名画に出演したダグラス。78歳となったいまもマーベル系の『アントマン』シリーズに出演するなど活躍中だ。俳優としてはまさにこれ以上ない成功を収めたわけだが、実はカメラの裏側の私生活ではさまざまな苦労もあった。
マイケル・ダグラスの父親、カーク・ダグラスもハリウッドの大スターで、『スパルタカス』(1960)での主演などが印象的だった。まさにハリウッド一家というわけで、1972年にマイケルが注目を集めたのも当然だったのかもしれない。
マイケルが注目を浴びるきっかけとなったのはドラマシリーズ『サンフランシスコ捜査線』(1972-1976)だった。このドラマはサンフランシスコで活躍する二人の殺人課の刑事が主人公で、マイケルはこのドラマでの演技で数多くの賞を受けることになった。
1975年にマイケルは『カッコーの巣の上で』をプロデュース。映画の権利は父親から譲り受けたものだった。この映画は批評家にも観客にも好評で迎えられ、アカデミー賞では作品賞と、ジャック・ニコルソンの主演男優賞を受賞した。
そのすぐあとに、最初の妻に出会う。そしてマイケルの波乱万丈の人生の幕が開けるのもここからだ。詳細は省くが、この女性との関係がダグラス家の人々の不興を買ってしまったのだ。だが、そんなトラブルに陥りながらもマイケルの俳優としてのキャリアは順調に進んでいく。
1984年にはロマコメ映画『ロマンシング・ストーン 秘宝の谷』で主演兼製作を務める。この映画はヒットし、監督ロバート・ゼメキスの出世作ともなった。
そして1987年には『危険な情事』でアレックス・フォレストと共演。一夜の火遊びが制御不能になっていく過程を演じた。この映画は多くの人に不倫を思いとどまらせる効果があったことだろう。ちなみに、ストーカー気質の人のことを「bunny boilerうさぎを煮る人」と呼ぶようになったのもこの映画のワンシーンが由来だ。
『ウォール街』(1987)ではゴードン・ゲッコーを演じアカデミー主演男優賞を受賞。90年代に入っても人気は衰えず、シャロンストーンと共演した『氷の微笑』(1992)はセクシー描写が物議をかもした。
2000年には最初の妻と正式に離婚し、キャサリン・ゼタ=ジョーンズと再婚した。二人の間には一男一女の二人の子供がいるほか、なんとふたりとも9月25日生まれという共通点も。二回目の結婚は成功だったのか現在まで20年以上続いている。
マイケルの活躍はとどまるところを知らず、『恋するリベラ―チェ』(2013)ではマット・デイモンを恋人役にして好演を見せた。さらにマーベル・ユニヴァースにも進出、『アントマン』シリーズにも登場した。マイケルの才能の幅広さを見せつけた形だ。
そんなマイケルはチャリティ活動にも積極的。さまざまなイベントに参加したほか、財団を設立したり、国連平和大使に任命されたことも。だがこのような輝かしい側面は彼の人生のごく一部に過ぎない。スクリーンの上での笑顔を見ているだけではわからない、彼の波乱万丈の人生をチェックしてみよう。
1977年に出会った最初の妻ディアンドラは当時まだ19歳だった。しかも交際からわずか三か月で結婚している。
結婚してすぐ、二人の間には息子のキャメロンが生まれた(写真中央)。二人の間の唯一の子どもだ。
そんな二人は仲が冷めるのも素早かったらしく、それから数年後に『ハーパーズバザー』誌のインタビューを受けたディアンドラは関係がうまくいっていないことを語っている:「何年間も誰にも言っていませんが……ここで私が彼を責めてもしょうがないことです。個人攻撃をしたいわけではありませんし、なにが起きているかを少しだけでも伝えるようなことをすれば自分を貶めることになるでしょう」
後にキャメロン・ダグラスの回想録で明らかにされたのは、キャメロンは父親の振る舞いのせいで自分の幼少期が損なわれたと感じているということだった。キャメロンによると7歳の時に母親から父親が不倫していることを教えられ、そのストレスから過食に陥り、泣き疲れては寝るような生活になってしまったのだという。『デイリー・メール』紙が伝えた。
『ピープル』誌によると、1991年にマイケルは「飲酒及び薬物」中毒の治療を開始したという。治療はうまくいき、それからは酒も断って荒れることもなくなったとか。
だが、マイケルの弟のエリックはそううまくいかなかった。エリックも20年以上のあいだ薬物や処方薬に依存してしまっていた。そして2000年には鎮痛剤をオーバードーズした結果ソーセージをのどに詰まらせ、8日間ものあいだ意識を失う事態に陥ってしまう。『デイリー・ミラー』紙が伝えた。エリックは後遺症が残り、2004年、46歳の時に事故によるオーバードーズで亡くなるまで言語能力や歩行能力が完全に回復することはなかったという。
ディアンドラとマイケルは1995年に別居。あまりにも長いあいだ結婚を続けることにこだわってしまったとマイケルは『メトロ』に語っている:「こういう話をするのは問題だと思うんですが、私は最初の妻に対してなにも思うところはありませんし、じっさい今でも大好きですよ。それでもあの結婚は8年か、10年は早く終わらせるべきものでした」
離婚が正式なものとなったのは2000年だった。当時としては最高レベルの額の慰謝料が払われたため、多くのメディアを賑わすこととなった。『フォーブス』誌によるとマイケルが払った慰謝料は約4500万ドル(約60億円)というのだから驚きだ。
キャサリン・ゼタ=ジョーンズが登場してきたのもこの頃だ。二人は当初関係を否定していたが、マジョルカ島にあるマイケルの別荘で二人が親密そうにしている様子がパパラッチに撮影されたことで秘密の関係が明らかとなった。
だがそんな二人も最初の出会いは気まずいものだったようだ。『ハロー!』誌によると、キャサリンがマイケルに最初にかけた言葉は次のようなものだったらしい:「あなたについては色々噂を聞いていますし、目にしてもいます。さようなら」もちろん、いまでは20年以上つづくおしどり夫婦なのだが。
そんなキャサリンにも辛い時期があり、双極性障害の治療を受けていたことがある。『ガーディアン』紙の報道によると、2011年にキャサリンは声明を発表、「コネティカットの精神病院に5日間入院し双極性障害の治療を受けた」ことを公表したのだという。
さらに、同紙によると2013年にはマイケルと一時的に別居していたこともあるという。『ピープル』誌に関係者が語ったところでは、ふたりは「少し休憩」していたのだとか。
2009年には最初の妻との間の息子、キャメロンが薬物の販売目的所持で逮捕され有罪判決を受ける。息子の行いについて、ダグラスは次のような悲痛な書簡を裁判所に送っている:「私は息子を愛していますが、行ったことに目をつぶるわけにはいきません。彼はもう成人で、自分の行動には責任を取らねばなりません。ですが、薬物濫用には遺伝や家族、周囲からの圧力などの影響も非常に大きいのです」キャメロンは7年間服役した。
『ハロー!』誌によると娘のケーリーも苦しんでいるのだという。若いころから両親の知名度の高さに悩まされ、おまけに父親が高齢なことについていろいろと失礼なことを言われてきたのだという。だがそんなケーリーもいまでは自分の歩むべきを見つけ、両親の背中を追ってハリウッドでやっていく決意をしようだ。
『デイリー・ミラー』紙によると、マイケルは子どもたち、とくにキャメロンが苦しんでいることについて責任を感じているのだという。マイケルはこう語っている:「昔は仕事第一でした。家族よりキャリアを大事にしていたのです。もっと家族に目を向けるべきでした」
2010年にマイケルは癌の診断を受ける。のどに腫瘍が見つかり、8週間のあいだ放射線と薬物による治療を受けたのだ。
『ガーディアン』紙のインタビューで癌の原因は長年の喫煙かとたずねられたマイケルは衝撃的な回答をする。なんと夫婦の営みに際して口を使いすぎたせいだというのだ。これにはさすがにキャサリンも困ってしまい、マイケルはのちに謝罪した。
2020年2月6日、マイケルはSNS上で父親の死を報告した:「大変残念ですが、今日、私たちの父カーク・ダグラスが103歳で亡くなりました」マイケルによると、亡くなったカークは大変すばらしい父親だったということだ。
映画の世界で暮らしてきた78歳の役者ともなれば、その人生が波乱に満ちているのも当然かもしれない。だが、そんなマイケルもようやく平和な暮らしを手に入れ、役者としてのキャリアと家族生活とのバランスを見出すことができたようだ。