女優ロミー・シュナイダーの波乱に満ちた43年の生涯:アラン・ドロンとの婚約と破局、家族との悲劇的な別れ......
映画『プリンセス・シシー』での役柄のように、ロミーに対しモダンで解放的な女性という印象を抱いている人も多いだろう。しかし、世界的な女優として活躍した一方で、その私生活は順風満帆とは言い難いものだった。
ロミー・シュナイダーが送った波瀾万丈な人生と、43歳という若さで他界するまでを振り返ろう。
ロミーの父方の祖母ローザ・アルバッハ・レッティは、第二次世界大戦が始まった1938年9月23日にウィーンで誕生。ウィーンの劇場で活躍した大女優だった。その息子でロミーの父親であるヴォルフ・アルバッハ・レッティも俳優として舞台・映画で活躍。母親のマグダ・シュナイダーもドイツ出身の女優と、ロミーは役者一家で育った。この写真は映画『幸せな二人』で父ヴォルフと母マグダが共演しているところである。
父方の祖母であるローザと親衛隊シンパの父ヴォルフは、ナチスのプロパガンダに貢献する芸術家として、共にリストアップされていたという。
さらに、母親のマグダはヒトラーと親密な間柄だったようだ。娘のロミーは、1976年、友人でありジャーナリストのアリス・シュヴァルツァーに家族とナチスの関係を告白。アリスはドキュメンタリー『ロミー・シュナイダーとの会話』で次のように回想している。「ロミーは母親がヒトラーと性的関係を持っていたと確信していました」
大人になったロミー・シュナイダーは、両親の後ろ暗い過去から解放されようと奮闘。ナチスの犠牲となった人々を何度も演じ、自分の子供たちにユダヤ人のファーストネームをつけたのも罪の意識からだったようだ。
両親が離婚したとき、ロミーはまだ6歳だった。戦争末期には、ナチス占領下のオーストリアに戻り母親と共に暮らすことに。そこで終戦を迎えたが、マグダがナチスに近しい立場だったことで芸能活動を制限され、一家は経済的に困窮。ロミーは、オーストリアのカトリック系の寄宿学校に通うこととなった。
1953年、寄宿学校を出たばかりのロミーは、母親が主演を務めるハンス・デッペ監督の『再び白いライラックが咲いたら』にて映画デビューを果たす。この映画は西ドイツで大成功を収め、華々しいキャリアのスタートを切ることとなる。
1953年12月、母マグダはレストラン経営者のハンス・ヘルベルト・ブラッツハイムと再婚。実はこの継父が、ロミーに性的虐待を行っていたのではないかという疑いが上がっている。前出のドキュメンタリーでは、友人のアリス・シュヴァルツァーがこう語っている。「ロミーは私に、『継父は何度も私と一緒に寝ようと迫ったの』と、まるで昨日のことのように傷ついた様子で告白したんです」
エルンスト・マリシュカ監督の1954年の『プリンセス・シシー』にてオーストリア皇后エリザベート役を演じ、16歳にして一躍ヨーロッパ映画界のトップスターとなる。母マグダは、劇中でロミーの母親役を演じている。
『プリンセス・シシー』はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と、「シシー」という愛称で親しまれ、皇后となるエリザベートの出会いから結婚までを描いた物語である。この作品が大ヒットを記録したことにより、エルンスト・マリシュカ監督はその続編、さらに第3作も製作することになる。
母と継父は『シシー・Ⅳ』にも出演するようロミーに迫ったが、断固としてそれを拒否したという。
ロミーはドイツ屈指の人気女優となり、『プリンセス・シシー』と同時期に数々の作品に出演。『制服の処女』(1958年)では、当時のドイツの映画スター、リリー・パルマーと共演を果たしている。
19歳のロミーが、当時はそれほど有名でなかったアラン・ドロンと出会ったのはこの時期であった。2人は『恋ひとすじに』(1958年)で共演。第一印象は最悪だったというが、撮影の間に恋に落ちたそうだ。
母親と祖国ドイツに息苦しさを感じたロミーは、1958年にドロンのいるフランスに移住を果たす。ドイツと家族を捨て、「ロミー・シュナイダー」といえば清純映画の「シシー」というファンのイメージを裏切ったロミーは、これ以後ドイツのマスコミに裏切り者扱いされることとなる。
ドロンは一躍脚光を浴び、スター街道を駆け上っていくが、ドイツでの人気が落ちたロミーは反対に仕事が激減。ドキュメンタリー『ロミー・シュナイダーとの会話』によると、ロミーは友人のアリスにこう打ち明けたという。「私はアランに夢中だったの(...)でも、アランが名だたる監督たちと仕事をしているのを見て、自問自答したわ。『これからどうしたらいいんだろう?』結局のところ、私は演じるために生まれてきたんだと思う」
その後『審判』(1962年)と『枢機卿』(1963年)での演技が評価され、複数の賞を受賞したロミーは女優として復活を遂げる。しかし、仕事が忙しくなるにつれて恋人のドロンとはすれ違いが重なり、交際5年目にして破局を迎えた。
1965年3月にベルリンで、ロミーは舞台演出家・俳優のハリー・マイエンと出会う。2人は1966年の夏に結婚し、ロミーは数か月後に第1子となるダーヴィットを出産。以後、しばらくの間ロミーはベルリンで育児に専念することとなる。
1968年、ロミーは元婚約者のドロンから指名を受け、ジャック・ドレー監督の『太陽が知っている』で相手役のマリアンヌを演じることに。ジェーン・バーキンとモーリス・ロネが主演したこの映画は大成功を収め、ロミーはフランスの映画界で再度脚光を浴びる。
1970年代初頭には、『すぎ去りし日の…』(1970年)、『夕なぎ』(1972年)、『ルートヴィヒ』(1973年)など約15本の映画に出演を果たす。フランスでのロミーの成功とは対照的に夫マイエンとの仲は冷え切り、1972年には別居。離婚が成立したのはそれから3年後だった。
1976年、『大切なのは愛すること』(1975年)でセザール賞主演女優賞を受賞。 3年後の1979年、『ありふれた愛のストーリー』(1978年)で2度目のセザール賞主演女優賞に輝いた。
プライベートでは、ジャーナリストのダニエル・ビアシーニと1975年に再婚。再婚時は妊娠6か月だったが、同年末に流産してしまう。その後ロミーは再び妊娠し、1977年の夏には第二子となるサラ・マグダレーナを出産した。
しかし1979年の春、娘と共にメキシコで休暇を過ごすロミーの元に、突然の訃報が届く。元夫のマイエンが、薬物中毒の末、自ら命を絶ったのである。
写真:『華麗なる相続人』でのロミー・シュナイダー(1979年)
1981年はロミーの人生の中で、間違いなく最悪の年と言えるだろう。2月には夫のダニエルと別居。春に岩から転落して足を骨折し、その数週間後には腫瘍のため、ロミーは右の腎臓を摘出する手術を受けることとなる。
そして追い討ちをかけたのは、1981年7月の愛する息子との突然の別れだった。息子ダーヴィットは友人たちと過ごした後、一緒に暮らしていた父方の祖父母の家に帰宅。高さ2メートルの門は閉まっており、自力で乗り越え家に入ろうとした結果、鉄製の柵の上に落下してしまったのである。同日夜、ダーヴィットは14歳という若さでこの世を去った。
愛息子を失った悲しみから立ち直ろうとするが、ロミーは深刻なうつ病を患ってしまう。1982年5月29日、パリのアパートで意識を失っているところを、当時の恋人のロラン・ペタンによって発見される。一部のメディアによるとロミーの机の上には、インタビューの欠席を謝罪する手紙が残されており、その隣には薬物とアルコールが発見されたという。こうして43年という短い人生は突如幕を下ろした。
実のところ、ロミーの死因は謎のままだ。自ら命を絶ったという意見や、薬物の過剰摂取だったという声も上がっている一方、ロミーに近しい関係者は、心臓発作が原因だと発表している。捜査を担当した判事は司法解剖を要請しなかったため、その真相はいまだ明らかになっていない。
2008年にはロミー・シュナイダーのキャリアに対し名誉セザール賞が授与され、故人に代わりアラン・ドロンが賞を受け取った。ドロンは後に、ロミーが「人生最良の恋人」だったと語っている。ロミーの没後数十年が経った今でも、その名前は人々の記憶に刻まれ続けていることだろう。