どうしてブラジルには世界最大の日本人コミュニティーがあるのか?
20世紀初頭、多くの日本人が新天地を求めてはるか遠くブラジルへ渡った。大規模な移民は双方の国にとってメリットのある事業だった。ブラジル側は安価な労働力を得ることになるし、日本は日本で、国内の人口過剰を解消することにつながったからである。
そのようにして多くの日本人がブラジルへわたり、主にサンパウロ州やパラナ州北部のコーヒー農場で働き始めた。当時の農場主たちは、1888年に奴隷制が廃止されたことから働き手を失い、奴隷に代わる新たな労働力を求めていたのである。
一方日本では、日露戦争後の経済不況と急激に増加しつつあった人口への対策として、政府が海外移住を推進したのだった。
1908年6月18日、781人の日本人を乗せた笠戸丸がサントス港に入港した。ブラジル移住の第一歩である。船が神戸港を出港したのが4月28日だったので、およそ1ヶ月半におよぶ船旅だった。
ブラジルに到着すると、移民たちは文化的な壁と、言語的な壁にぶつかった。もちろん差別にもぶつかった。日本人はブラジルに馴染めない、と一方的に決めつけられることもあった。
加えてブラジルのエリート層は、アジアではなくヨーロッパからの移民を受け入れることを望んでいた。ブラジル国内に占める白人系住民の割合を高くしたいと望んでいたのだ。
それでも、奴隷制の廃止以来、コーヒー農場における労働力不足はなお厳然としてあった。ブラジル政府は引き続き日本政府と対話をおこない、日本からさらに多くの移住者を受け入れようと考えた。
そして1910年6月、日本からの移民第二弾となる船がブラジルに入港した。船の名前は旅順丸。今回は906人の移住者を乗せていた。
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この906人の移民はサンパウロ州のさまざまな農場にふりわけられた。先輩の移民たちと同じく、彼らも多くの苦難を嘗めた。しかし、時間の経過とともに現地住民との不和は徐々に解消されていき、日本人移民は労働者として当地に根付いて行ったと、サンパウロ州立法議会(Alesp)HPは伝えている。
ウェブメディア「infoescola.com」は、当時サンパウロ州で移民の入国検査にあたっていたアマディオ・ソブラル(Amândio Sobral)の報告を紹介している。彼によれば、日本人は「みんな整然とワゴンから降りた。彼らがいなくなった後、舗道には吸い殻や果物の皮は見当たらなかった」という。
さらに日本人は、規律正しい生活態度と、完璧さを追求する仕事ぶりでブラジルの人々を驚かせた。
その後もサンパウロ州は日本からの移民を受け入れ続けた。1914年、サンパウロ州の日本人労働者はおよそ1万人にまで増えた。
1930年代に入ると、ブラジルで新しい移民法が施行された結果、日本からの移民は一時的に中断された。移民が再開したのは第二次世界大戦の終戦後だった。
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第二次世界大戦以前の1908年から1941年にかけて、およそ18万8千人の日本人がブラジルに移民したという。
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第二次世界大戦中には、多くの日本人移民とその子供たちが「敵性外国人」として迫害された。そして戦後、ブラジルと日本の関係は新しい段階に入ることになる。
1950年代になるころには、日系人はブラジル社会にいっそう深く根を下ろしていた。日系人が政治職に就き始めるのはこのころである。ブラジル政府はさらに日本人移民を受け入れ、日本企業による投資も呼び込んだ。
最初の船がサントス港に入港してから50年が経過した1958年、日本人移民とその子供たちの数はおよそ40万人にまで達した。
その頃には、ブラジルの社会や経済のさまざまな分野に日系人が進出していた。
今日、ブラジルの日本大使館のデータによると、およそ200万人の日本人とその子孫たちがブラジルに住んでいるという。日本本国をのぞけば、世界最大の日系人コミュニティである。
サンパウロ州のリベルダーデ地区は、日本人街として知られている。そこにはカラオケがあり、日本食のレストランがあり、日本人学校があり、鳥居もあれば、日本式庭園もある。日本の年中行事もここでは再現されている。
また、リベルダーデ地区全体の街灯がスズランの形をしていることも特徴的だ。日本文化の香りが強いこの地区は、観光客が多く訪れるエリアにもなっている。最初の移民船がサントス港についてから100年以上が経過した今、日系人はブラジルの歴史と文化において、重要な位置を占めるまでに至ったといえよう。