いろとりどりの和菓子にまつわる豆知識
洋菓子の人気におされ、日本国内ではかなり以前から消費が低迷し続けている和菓子。一方、最近では海外で注目を集めるケースも増えてきている。NHK放送によれば、日本製の和菓子を海外の消費者に“サブスクリプション”で送り届けるサービスを始めた起業家もいるそうだ。
さて、消費が低迷しているとはいえ、和菓子はわたしたちにとって身近なスイーツだ。けれども、そのルーツや秘密は意外と知られていないのではないだろうか? そこで、今回は和菓子にまつわる豆知識を見てゆくことにしよう。
代表的な和菓子のひとつ、どら焼き。ところで、どら焼きの「どら」とは何のことかご存じだろうか? 東京製菓学校のウェブサイトによれば、どら焼きの「どら」は打楽器の銅鑼のこと。その由来については、形が銅鑼に似ているためとか、もともと銅鑼の上で生地を焼いたからといった説があるそうだ。
また、どら焼きの形は時代によって変化しており、現在親しまれているような、2枚のホットケーキ風生地の間に餡を挟むタイプは大正時代に誕生したとのこと。
トゲトゲとした姿がキュートなコンペイトウ。老舗のコンペイトウ専門店「緑寿庵清水」によれば、その原型は戦国時代にポルトガルからもたらされた砂糖菓子であり、すこし不思議な響きをもつ名前もポルトガル語で砂糖菓子を意味する「コンフェイト(Confeito)」に由来するそうだ。
ちなみに、砂糖の結晶であるコンペイトウがなぜあのようなトゲトゲした形になるのか、さらに、トゲの数に規則性はあるのかといった疑問については、いまだに謎が残されているようだ。
こってりとした甘さが特徴のようかん。カロリーが高く、保存性もよいことから、最近ではスポーツ時の補給食や災害時の非常食に特化したタイプのものも出回るようになっている。
ようかんは漢字で書くと「羊羹」。発祥の地、中国ではもともと羊のスープだったと考えられている。一体全体、どうして甘くて四角いお菓子になってしまったのだろうか?テレビ朝日によれば、ようかんを日本に伝えたのが肉食を禁じられた禅僧だったことがひとつの理由だそう。さらに、時代が下るにつれて、精進料理からお菓子へと姿を変えていったそうだ。
和菓子の代表格のひとつ、大福。室町時代に作られていた「鶉餅(うずらもち)」というモチが原型だと考えられている。しかし、現在のようなお菓子になったのは江戸時代のこと。老舗和菓子店「末広堂」によれば、大福は腹持ちがよいことから、「腹太」「大腹」と呼ばれていたが、「腹」の字が縁起の良い「福」に置き換えられたことで、「大福」と呼ばれるようになったそうだ。
ところで、大福は大福でもいちご大福の方が好きという方も多いのではないだろうか? しかし、いちご大福の歴史はオリジナルの大福に比べるとはるかに短い。津市観光協会のウェブサイトによれば、「とらや本家」の店主夫妻があまった大福にいちごを乗せてたべたところ、思いのほか美味しかったため、1986年に商品化して売り出したそうだ。
和菓子と言えば、餡子が主役というイメージがあるが、もちろんそうでないものもある。なかでも、一風変わっているのがところてんだろう。ところてんや寒天を製造する専門店「ところてんの伊豆河童」によれば、仏教伝来と時を同じくして来日、平安時代にはすでに食されていたそうだ。
画像:写真AC
寒天はところてんと同じくテングサが原料だが、これを用いた和菓子の代表選手としてみつ豆がある。『家庭画報』誌によれば、みつ豆の原型となったのは江戸時代末期に屋台で売られていたお菓子で、米粉で作った舟にエンドウ豆を入れ、蜜をかけたものだったそうだ。
その後、明治時代に老舗和菓子店「舟和」の店主が寒天や求肥、フルーツを加えて改良し、みつ豆が誕生。昭和に入ると、みつ豆に餡子を加えたあんみつが登場した。
今では和菓子の一員として広く親しまれているカステラだが、実は16世紀にポルトガルから伝えられたものだ。名前の由来は当時、イベリア半島で勢力を広げつつあったカスティーリャ王国(後のスペイン王国)だと考えられている。
「鯱もなか本店」によれば、「もなか」という名前の由来は平安時代の和歌にあり、本来はお月見の宴会で振舞われた丸餅のことだったとか。江戸時代には煎餅に砂糖をまぶしたようなお菓子が「もなかの月」と呼ばれていたが、これに餡を挟むようになり、現在のもなかへと変化していったそうだ。
白あんや求肥などを用い、季節感あふれる色とりどりのデザインで花鳥風月を表現する練り切り。農林水産省のウェブサイトによれば、凝った練り切りが作られるようになったのは江戸時代のことで、茶の湯のお供という位置づけだったようだ。