あれから30年:リヴァー・フェニックスがこの世を去った夜
80~90年代のハリウッドで期待の新星だったリヴァー・フェニックス。『タイタニック』や『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』で主役を演じる可能性もあったが、1993年10月にわずか23歳の若さで他界。今回は夭折の天才の悲劇を振り返ろう。
「あの夜は何かおかしかったんです。それが何なのか私にはわかりませんでしたが。その晩ハイになっている人は目に付きませんでしたが、(リヴァー・フェニックスは)あまりにハイで不快なほどだったのを覚えています」リヴァー・フェニックス最期の夜をこう回想したのは女優のサマンサ・マシス。数十年の時を経て、『ガーディアン』紙のインタビューで事件について口を開いたのだ。
1993年10月31日未明、ナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」で何があったのだろう?当時23歳のリヴァー・フェニックスはどうしてこの世を去ることになってしまったのか?
サマンサ・マシスが『ガーディアン』誌に語ったところによると、その晩2人は飲みに出かけたのだという。もともと、ジョニー・デップが経営するナイトクラブ「ザ・ヴァイパー・ルーム」に行くつもりはなかったが、結局、足を運ぶことになったらしい。サマンサいわく:「『今夜、あのクラブでコンサートがあって一緒に演奏しないかって誘われているんだ。行ってもいいだろ?』って聞かれました」
クラブについた2人はしばらくそこに留まっていたが、最初はいつもと違う様子はなかったという。ところが、悲劇はすぐに訪れる。サマンサがトイレから戻って来ると、リヴァーは男と喧嘩していたのだ。
サマンサは『ガーディアン』紙のインタビューに対し、「2人はドアマンにクラブから追い出されました」と回想。後を追って通りに出ると、リヴァーは地面に倒れて痙攣していたという。これを見たサマンサは相手の男に「リヴァーに何したの?」と叫んだが、その男は「放っておけよ。そんなやつのためにパーティーを台無しにすることはないさ」と返答。
サマンサは助けを求めてクラブに戻ったが、時すでに遅し。弟のホアキン・フェニックスと一緒にリヴァーの蘇生を試みたが、無駄だった。サマンサは同紙に「救急車を呼んでもらいましたが、救急隊員にも打つ手はありませんでした。コカインとヘロインの過剰摂取でこと切れていたのです」とコメントしている。
彼の死によって、ハリウッドは映画界きっての有望な若手を失うことになってしまった。1980年代に俳優としてスクリーンデビューを果たしたリヴァー・ジュード・フェニックス。子供時代は家族とともに米国やプエルトリコ、ベネズエラなど、各地を転々としていた。
リヴァーが初めてTVに姿を見せたのはショー番組『Fantasy』だった。NBC放送で秘書として働いていた母がリヴァーと妹のレインにオーディションを受けさせたのだ。しかし、リヴァーが本格的に俳優として成功し始めたのは、NBCドラマ『Seven Brides for Seven Brothers』でガスリー・マクファーデン役を演じたときだ。
2年後の1985年、リヴァーは『エクスプローラーズ』で同じく期待の新人だったイーサン・ホーク、ジェイソン・プレソンと共演。これによってハリウッドへの扉が開かれることとなった。
続いて『モスキート・コースト』や『旅立ちの時』といったヒット作に出演。とくに『旅立ちの時』ではアカデミー助演男優賞にもノミネートされている。
1989年、リヴァー・フェニックスは『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』で若い頃のインディ・ジョーンズを演じた。1年後、今度は『殺したいほどアイ・ラブ・ユー』でブラック・コメディに進出。
1991年、リヴァーは出演作の中でもとりわけ印象的な『マイ・プライベート・アイダホ』でキアヌ・リーヴスと共演。ガス・ヴァン・サント監督が指揮したこの作品は今やゲイ映画の古典となっているほか、1991年のヴェネツィア国際映画祭でリヴァー・フェニックスに主演男優賞をもたらすこととなった。
この映画の撮影でキアヌ・リーヴスと親友になったリヴァー・フェニックス。そんなリヴァーの急逝はキアヌにも大きな衝撃を与えることとなる。
俳優として順調にキャリアを積み上げていったリヴァー・フェニックス。1993年には『愛と呼ばれるもの』で女優のサマンサ・マシスと共演、交際がスタートした。
同作にはサンドラ・ブロックやダーモット・マローニーも出演。撮影は1993年2月にクランクアップしたが、リヴァーは同年10月にこの世を去ってしまうこととなる。
リヴァー・フェニックスが急逝したのは、最新作『ダーク・ブラッド』撮影中のことだった。
この作品には、ジョージ・シュルイツァー監督指揮のもとジュディ・デイヴィスやジョナサン・プライスも出演。しかし、リヴァーの死によって、19年間未完成のままお蔵入りとなっていた。
しかし、シュルイツァー監督は未完成のフィルムをつなぎ合わせたり、ナレーションを追加したりすることで何とか作品を形に。リヴァー・フェニックスが完成を見届けることのできなかった『ダーク・ブラッド』は、2013年のベルリン国際映画祭でついに公開されることとなった。
リヴァー・フェニックスはこの世を去ったとき、すでにいくつかの契約にサインしており、制作陣は代役を立てなくてはならなかった。たとえば、『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』では記者ダニエル・マロイ役を演じることになっていたが、結局この役はクリスチャン・スレーターの手に渡っている。
本人が『Venice Magazine』誌で語っている通り、クリスチャン・スレーターはダニエル・マロイ役が本来リヴァー・フェニックスのものだったことを意識していた。そこで、この役で手にした収入は、リヴァーが気に入りそうな慈善団体に寄付してしまったそうだ。
リヴァーが急死しなければ演じていたかもしれない、もう1つの大役が『タイタニック』のジャック・ドーソン役だ。後に世界中を虜にすることとなるこの役は、当時まだ若手だったレオナルド・ディカプリオの手に渡ることに。
急逝直前のリヴァー・フェニックスに会っていた数少ない人々の1人、レオナルド・ディカプリオ。『Esquire』誌のインタビューでは、「リヴァー・フェニックスに憧れて育ったから、彼と握手してみたかった」とコメントしている。
「シルバーレイクで開かれたパーティーの場で、階段を上って来るリヴァーを見かけたよ。こちらに向かってくるのを目にしたときは思わず凍り付いてしまったね。でも、僕は人混みに行く手を遮られて、振り返ったときにはもういなかった。…… そのときにはもうザ・ヴァイパー・ルームに向かっていたんだ」と当時を回想するディカプリオ。リヴァーはその晩、この世を去ってしまうこととなる。
リヴァーが遺したものは映画やTV番組だけではない。リヴァーの母親、アーリン・シャロン・フェニックスは社会活動家としてよく知られているほか、きょうだい(写真)もショービジネスの世界で活躍中だ。
妹のレイン・フェニックス(写真右)は映画『最後の恋のはじめ方』に出演したほか、レッド・ホット・チリ・ペッパーズをはじめとするバンドとコラボ。もう1人の妹のサマー・フェニックス(写真左)もファッション業界で活動している。
しかし、リヴァー・フェニックスのきょうだいの中で一番よく知られているのは、俳優のホアキン・フェニックスだろう。ハリウッドの大物俳優として3度のアカデミー賞ノミネート歴を誇り、『ウォーク・ザ・ライン/君につづく道』でゴールデングローブ賞を獲得したほか、『ジョーカー』ではアカデミー賞を手にするなど、すでにベテランの域に達している。
リヴァーが他界したとき19歳だったホアキン。兄の急逝に大きな衝撃を受けたことは想像に難くない。2020年9月、ルーニー・マーラとの間に第1子が誕生すると、亡き兄にちなんでリヴァーと命名した。
亡き兄についてコメントすることは少ないホアキンだが、2019年のトロント国際映画祭ではリヴァーに関する思い出を語っている:「私が15歳か16歳だったころ、兄のリヴァーが『レイジング・ブル』のテープを家に持ってきたことを覚えています。無理やり見せられた上、翌朝起こされてもう一度見せられました」
ホアキンいわく:「『おまえ俳優になれよ』と言うんです。提案というより命令でしたが。でも、本当に俳優になって素晴らしい人生を歩むことができたのは、兄のおかげです」