『プリティ・ウーマン』のジュリア・ロバーツ:波瀾万丈の女優人生
ジュリア・ロバーツは1967年にジョージア州アトランタの郊外で生まれ、1990年代以降はハリウッドのアイコンとして高い人気を得た。すばらしい美貌を武器に、最初はニューヨークでモデルとして契約し、すぐに演技の仕事もするようになった。
『プリティ・ウーマン』(1990年)にキャスティングされる以前、ジュリア・ロバーツがはおもに『ミスティック・ピザ』(1988年)という田舎町を舞台にした群像ラブコメディで知られていた。各種メディアも1990年までは、彼女をエリック・ロバーツの妹として紹介していた。エリックはジュリアよりも11歳年上の兄で、1980年代を中心に人気を博し、オスカー賞へのノミネート経験もある俳優だ。
『プリティ・ウーマン』の主人公、黄金の心を持ったストリートガールであるヴィヴィアン役は、ミシェル・ファイファー、モリー・リングウォルド、メグ・ライアン、ジェニファー・ジェイソン・リー、カレン・アレン、ダリル・ハンナにたてつづけに断られた末に、とうとうジュリア・ロバーツに巡ってきたのだった。
写真:『プリティ・ウーマン』/ブエナ・ビスタ・ピクチャーズ
もっとも、『プリティガール』公開以前にロバーツはすでに女優としてブレイクを果たしていた。1989年の『マグノリアの花たち』で糖尿病を患いながら出産を決意する女性を演じたロバーツは、その演技でアカデミー賞最優秀助演女優賞にノミネートされ、さらにゴールデングローブ賞を獲得したのだ。
写真:『マグノリアの花たち』/トライスター ピクチャーズ
そしてアカデミー賞受賞式の直後に『プリティ・ウーマン』が劇場公開され、ジュリア・ロバーツは一躍ハリウッドを代表する人気女優になったのである。本作はロマンティックコメディとしては米国最高の売り上げを記録し、ロバーツは再びアカデミー賞ノミネートを受ける。今回は最優秀主演女優賞へのノミネートだった。
写真:『プリティ・ウーマン』/ブエナ・ビスタ・ピクチャーズ
『プリティ・ウーマン』で爆発的にブレイクする前のこと、ロバーツは『愛がこわれるとき』(1991年)への出演契約を安いギャラで結んでいた。その映画でロバーツが演じたのは身体的にも性的にも虐待を受ける女性の役で、この役は個人的に非常にやりにくいとロバーツはメディアに語っていた。あるシーンでは、ロバーツは大理石の床に実際に頭を打ちつけ、頭部を蹴られている。
写真:『愛がこわれるとき』/20世紀フォックス映画
ロバーツは22歳で突如としてスターとなり、90年代を代表するハリウッド女優となったが、世間は早くも彼女にけちをつけ始めていた。評論家たちは『愛がこわれるとき』の家庭内暴力描写を非難した。さらに本作のジュリア・ロバーツはただ顔が可愛いだけだと評し、ロバーツの名声の急速な高まりをおもしろくなく思う人々がそれに同調した。
ジュリア・ロバーツへのメディアの批判は、その奔放な交際関係によってさらに高まることになった。ロバーツは映画『サティスファクション』(1988年)でリーアム・ニーソンと出会って同棲したのち、『マグノリアの花たち』で共演したディラン・マクダーモットと付き合った。その関係は彼女がキーファー・サザーランドと婚約することで破局を迎えたが、サザーランドとは『フラットライナーズ』(1990年)の撮影で知り合ったのである。
1991年、ジュリア・ロバーツとキーファー・サザーランドは結婚を控えた数ヶ月前に『ピープル』誌の巻頭特集「恋するジュリア」に登場した。その記事の中である関係者は、サザーランドはロバーツの成功に嫉妬していると語っている。
その特集記事から4ヶ月後、サザーランドの不貞のうわさが囁かれるなか、ロバーツは結婚式の3日前に式を突然キャンセルしてしまった。しかも、マスコミが大騒ぎする中、ロバーツはサザーランドの親友でもあった俳優のジェイソン・パトリックとアイルランドに飛んだのだ。
『フック』『愛の選択』(どちらも1991年)のあと、ロバーツは2年間スクリーンから遠ざかった。その間に『ピープル』誌はハリウッドの美女の行方を問う記事を掲載している。1993年、ロバーツは『ペリカン文書』でデンゼル・ワシントンと共演し、カムバックを果たした。
写真:『ピープル』誌, 1993年2月8日号
『ペリカン文書』でカムバックを果たしたものの、その後の出演作はたてつづけに失敗に終わっている。『アイ・ラブ・トラブル』(1994年)、『プレタポルテ』(1994年)、『愛に迷った時』(1995年)、『ジキル&ハイド』(1996年)だ。この時期、私生活ではカントリー歌手のライル・ラヴェットと結婚し、離婚している。
人気女優としての地位から失墜したロバーツだが、1997年にふたたび“当たり年”を迎えることになる。『ベスト・フレンズ・ウェディング』が大ヒットとなったのだ。
写真:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
その後の映画でさらに大復活を遂げる。『グッドナイト・ムーン』(1998年)、『プリティ・ブライド』(1999年)、『ノッティングヒルの恋人』(1999年)。この頃プライベートではベンジャミン・ブラットと交際していた。
写真:『プリティ・ブライド』/パラマウント映画, ブエナ・ビスタ・インターナショナル
2022年に『ニューヨーク・タイムズ』紙に登場したジュリア・ロバーツは、今世紀に入って以来ロマンティックコメディに出演していない理由はごく単純で、良い脚本が一つもないからだと語っている。家庭生活を送るなかで役の選り好みも厳しくなったとも。しかし、2022年にロマンティックコメディの『チケット・トゥ・パラダイス』に出演し(共演はジョージ・クルーニー)、その禁を解いた。
ロマンティック・コメディには出演しなかったが、ロバーツは実際の集団代表訴訟を題材にした『エリン・ブロコビッチ』(2000年)でアカデミー賞主演女優賞を手に入れた。ロバーツが演じたエリン・ブロコビッチは失業中のシングルマザーだが、ひょんなことから法律事務所で働きはじめ、地下水を汚染しながらそのことを隠蔽する大企業を相手に闘うことになるのである。
『ザ・メキシカン』(2000年)の撮影中、彼女は撮影監督のダニエル・モダーと運命の出会いを果たす。しかしあいにく、当時のモダーには家族があり、ロバーツのほうもベンジャミン・ブラットと交際していた。ふつうは諦めそうなところだが、モダーとロバーツはそれぞれパートナーに別れを告げて、2002年に結婚した。2004年に双子を授かり、2007年に男の子が生まれ、夫婦の結婚生活は今年23年目を迎えている。
ジュリア・ロバーツは1990年代と2000年代を通じて最も出演料の高い女優のひとりであり、最高額は2003年の映画『モナリザ・スマイル』によってもたらされた。2,500万ドル(当時のレートで約30億円)である。これは実際、女優に支払われた映画出演料として当時の最高額だったと金融情報サービス「Yahoo!ファイナンス」は伝えている。
笑顔が素敵な彼女には、その笑顔に保険をかけていたといううわさがある。2022年の『ニューヨーク・タイムズ』紙で、ロバーツはその奇妙なうわさを一蹴した。「もし笑顔に保険がかかっていたなら、誰かが毎晩うちにやってきて『もっとしっかりデンタルフロスで掃除しなさい』と言うんでしょうね」と語っている。
数多の成功作のあと、ジュリア・ロバーツは2010年ごろから自身のスピリチュアルな側面に取り組み始め、ヒンドゥー教徒になることを発表した。その同じ年、『食べて、祈って、恋をして』という名作映画で自分自身を発見していく女性を演じている。
ロバーツは長い期間を通じてハリウッドを代表する女優の地位にとどまっており、『マネーモンスター』(2016年)や『ワンダー 君は太陽』(2017年)といったヒット作など50本以上の映画に出演している。浮き沈みもあるキャリアを通して、2億5,000万ドル(約3,700億円)の資産を保有しているとウェブサイト「CelebrityNetWorth」は見積もっている。
2023年、オンラインマガジン『Deadline.com』はジュリア・ロバーツが『フォーチュン・クッキー』ふうの身体入れ替わりコメディを撮影していると報じた。共演は同じく90年代のアイコン、ジェニファー・アニストン。脚本と監督は『パーム・スプリングス』(2020年)で知られるマックス・バーバコウが担当しているという。