ダニエル・クレイグ:苦労の駆出し時代から栄光の『007』シリーズまで

ジェームズ・ボンドとはかけ離れた人生
幼い頃から憧れた俳優業
学業と俳優の道
両親の離婚とその影響
成績が悪かった中学時代
ラグビーで活躍
俳優への道
困窮した劇団員時代
難関の演劇学校
オーディションの成功
新生ジェームズ・ボンドへの批判
予想外の影響
暴かれる私生活
理想的なパートナーの登場
新たな出会いと家庭
撮影現場の問題
スタントマンなしでの撮影
脚本家組合のストライキ
さらなる大怪我
ジェームズ・ボンド役はもうイヤ
『ノー・タイム・トゥ・ダイ』
ジェームズ・ボンドとはかけ離れた人生

ダニエル・クレイグにとり、人生は決して楽なものではなかった。リバプールに生まれ、ハリウッド史上最高のジェームズ・ボンドとして推定1億6千万ドルの資産を手に入れた彼だが、そこに辿り着くまでの道は極めて険しかった。高級ホテルでウォッカ・マティーニを口にするどころか、困窮のあまり公園で野宿することもあったという。

幼い頃から憧れた俳優業

ダニエル・ロウトン・クレイグは1968年3月2日にイングランド・チェシャー州チェスターで生まれ、リバプール近郊で育った。母親や姉妹とよく劇場に足を運んでいたほか母の友人には役者が多く、幼い頃から俳優業に魅力を感じていたようだ。『Interview』誌に対し、「演じることに、いってみれば恋に落ちてしまったんだ。大声を出したり衣装を身に着けることが好きなんだ」と語っている。

 

学業と俳優の道

母親のキャロル・オリビアは美術教師。父親のティモシー・ジョン・ロウトン・クレイグは、商船隊の幹部候補生を経て、2軒のパブのオーナーになった(チェシャー州フロッドシャムにあるRing o 'BellsとタルポリーのBoot Inn)。ダニエル・クレイグは6歳のときに学校演劇で初めて演技に触れ、その後、本格的に学ぶためにリバプールのエブリマン・シアターに入学している。

両親の離婚とその影響

1972年、ダニエル・クレイグが4歳の時に両親は離婚、幼かったダニエルは母親と姉のリアと共にリバプールで暮らすようになる。その後ウィラル州ホイレイクにある母親の家に引越したが、そこでの少年時代はきわめて困難なものだった。

成績が悪かった中学時代

優秀な学生ではなかったが、本人は意に介していなかったようだ。ともあれ姉のリア(1965年生まれ)と共に、マージーサイド州ウェストカービーのヒルブル・ハイスクールで義務教育を終えることができた。

ラグビーで活躍

16歳で中等教育を終えるとカルデイ・グレンジ・グラマー・スクールに進学。ホイレイクRFCのラグビー選手だったダニエル・クレイグは、逞しい体格の持ち主だった。

俳優への道

1984年、マンチェスターで行われたナショナルユースシアター(NYT)のオーディションを受けるために16歳で高校を退学。みごとオーディションに合格すると、ロンドンに移り住んだ。初舞台はシェイクスピアの『トロイラスとクレシダ』のアガメムノン役で、駆け付けた両親は息子に対する誇りをにじませた。

困窮した劇団員時代

しかしナショナルユースシアター(NYT)に在籍を続けることは簡単なことではなく、ダニエル・クレイグはロンドン市内の飲食店でウェイターやコックとして働かざるを得なかった。一時は部屋代すらもなく、公園のベンチで夜を過ごしていたという。

難関の演劇学校

バービカンにあるギルドホール音楽演劇学校のオーディションには何度も挑戦し、そして落選している。しかし、長きに渡る努力が実り、1988年に合格。コリン・マコーマックに3年間師事し、1991年に卒業を果たした。

オーディションの成功

チャンスは突然に訪れた。1996年にBBCドラマ『Our Friends in the North』のオーディションに参加、この時ニューカッスル方言が求められたものの一切方言は使わなかったそう。それでも役を仕留め、見事な演技で批評家たちを驚かせた。こうしてダニエル・クレイグの名が知られるようになった。

新生ジェームズ・ボンドへの批判

名声は時を追うごとに高まり、ついに2005年にはピアース・ブロスナンの後を継いで史上6人目のジェームズ・ボンドになることが発表された。だが、このキャスティングはファンから予想外の反発を招いた。ダニエルは夜を徹してあらゆる批判的意見に目を通すなど、きわめて苦しい時期を過ごしたと告白している。

予想外の影響

世界で最も有名なスパイ役を引き受けることで、最大の名声を手に入れただけではなく予想外の注目に晒されることになったダニエル。「突然有名人になり、私生活に思いがけない影響が及んだのです」Apple TV+のドキュメンタリー番組『ジェームズ・ボンドとして』の中で告白している。

暴かれる私生活

ダニエル・クレイグは名声と引き替えにプライバシーを失ってしまった。シエナ・ミラーやケイト・モスとの関係だけでなく、元女優のフィオラ・ロードンとの結婚で授かった娘エラ(当時2歳)の存在についてもマスコミから大きく取り上げられるようになった。

理想的なパートナーの登場

ハリウッドライフにうまく馴染めずにいたダニエル・クレイグだったが、日系アメリカ人の映画プロデューサー、サツキ・ミッチェルとの出会いで大きな安定を得た。女優ではなく裏方を仕切る女性だからこそ、突然大スターになったダニエルの不安を抑える力になれたのだろう。二人は理想的なパートナーとして交際を続け、数年後には婚約にも至った。

新たな出会いと家庭

しかし2010年12月、ダニエル・クレイグはサツキ・ミッチェルと破局。時を置かず、『ドリームハウス』で共演したレイチェル・ワイズと交際をスタートさせた。二人は2011年6月にニューヨークで結婚し、2018年9月に娘を授かっている。プライバシーを大切にすることで知られるハリウッドの仲良しカップルだ。

撮影現場の問題

プライベートが軌道にのる頃、撮影現場ではトラブルが増え始めていた。007シリーズを通じて何度も怪我に見舞われ、耐え難い痛みを抱えながら撮影に臨んだシーンも少なくない。心理的にも大きな負担を強いられ、ダニエルはこの役を憎みはじめるほどだった。

スタントマンなしでの撮影

ドキュメンタリー映画『ジェームズ・ボンドとして』で、ダニエル・クレイグは当時の厳しい状況を振り返り次のように述べている。「基本的にすべてのシーンの演技を自分で行い、何度も大怪我をしてしまった。今から思えば愚かであり、大きな間違いをしたと思う」

 

脚本家組合のストライキ

シリーズ2作目となる『007 慰めの報酬』(2008)では、全米脚本家組合の大規模ストライキにより撮影が100日間中断された。これによりさらなるストレスを抱えたことは想像に難くない。

さらなる大怪我

最悪の怪我は『007 スペクター』(2015) の撮影中に起こった。主演のダニエルが好調の波に乗っていた時に足を骨折してしまったのだ。「あの作品づくりは最高の経験でした。しかし途中で大怪我を負い、手術で撮影を9カ月間中断するか、あるいは撮影を続行するかの決断を迫られました。最終的に我々は撮影の続行を選んだのです」とドキュメンタリーで語っている。

ジェームズ・ボンド役はもうイヤ

ダニエルが負傷した足の関節鏡視下手術を受けたのは『007 スペクター』の撮影を終えた後だった。ジェームズ・ボンド役をもう1本務めるくらいなら「手首を切る」とまで彼が言い出したとき、それを責める者がいなかったことは言うまでもない。

『ノー・タイム・トゥ・ダイ』

その後、007シリーズのプロデューサーであるバーバラ・ブロッコリはダニエル・クレイグに『ノー・タイム・トゥ・ダイ』への出演をオファーし、5000万ドルの出演料を提示して口説き落とした。本作は、多くの批評家が史上最高のジェームズ・ボンドとするダニエル・グレイクのシリーズ最後の出演作となった。リバプールやロンドンの公園に寝泊まりしていた、少し風変わりなジェームズ・ボンドが歴史に名を刻んだ。

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