3月に戦死したウクライナ司令官「ダ・ヴィンチ」とは?
3月7日、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は同国軍史上もっとも若い司令官の1人、ドミトロ・”ダ ヴィンチ”・コチュバイロの死を公表。
ゼレンスキー大統領は演説の中で、「彼は2014年以来、ウクライナの独立と国民の尊厳を守ってきました。ウクライナ英雄たちのなかでも最年少の1人です」とした。
写真:Twitter @Militarylandnet
ゼレンスキー大統領の説明によれば、"ダ・ヴィンチ"はその「気概と勇気」でウクライナ全体を勇気づけた、重要な戦士の1人だったという、
写真:Twitter @Militarylandnet
しかし、ウクライナ国内では伝説となっているドミトロ・コチュバイロの名も国外ではあまり知られておらず、彼の死がウクライナの人々や指導者に与えたショックの大きさを理解している人は多くない。
コチュバイロはウクライナ西部に位置するイヴァーノ=フランキーウシク州生まれ。『キーウ・インデペンデント』紙によれば、2014年に発生したユーロマイダンデモに積極的に参加していたという。
ロシアがクリミア半島を併合すると、コチュバイロはドネツク州で親露派勢力との戦闘に身を投じることに。そして戦闘の最中、戦車による砲撃で負傷したという。
写真:Twitter @Mykhailov_A
セルヒー・プリトゥラ財団でプロジェクトコーディネーターを務め、コチャバイロをよく知るメラニヤ・ポドリャク氏は、『キーウ・インデペンデント』紙に対し「ウクライナ東部は彼にとって実家のようなものでした」とコメント。
ポドリャク氏によれば、同氏とコチュバイロは2022年にロシアによるウクライナ侵攻がはじまるまでの9年間にわたって同国東部の紛争地帯で活動し、最前線を離れることはほとんどなかったという。
『キーウ・インデペンデント』紙のアナスタシア・ラパティーナ記者は「2016年、当時21歳だったコチュバイロは『ダ・ヴィンチのオオカミ』の異名で知られる第一強襲連隊の司令官に就任しました」と書いている。
写真:Twitter @Militarylandnet
ウェブサイト「ビジネスインサイダー」によれば、コチュバイロはドンバス地域における親露派勢力との闘いが評価され、「ウクライナ英雄」の称号を贈られることとなった。一方で、右翼の志願兵部隊のメンバーだったとして議論の的にもなっていたようだ。
写真:Twitter @Mykhailov_A
コチュバイロは「右派セクター」のリーダーとして、熱烈なナショナリストだったのだ。ただし、2020年にコチュバイロにインタビューを行った『インデペンデント』紙の特派員、キム・セングプタ記者の報告によれば、人種差別主義者ではなかったとのこと。
写真:Twitter @LogKa11
コチュバイロいわく:「私たちはナショナリストです。私自身もそうです。しかし、この部隊にはユダヤ人やイスラム教徒、キリスト教徒が混在しています。ご覧の通り、ナチやファシストのタトゥーを入れている人は1人もいません」
写真:Twitter @Sinnaig
コチュバイロはさらに、「さまざまな国から志願兵が参加しています。私たちはメンバーの出身地や宗教を問わないのです」と付け加えている。
写真:Twitter @war_noir
セングプタ記者によれば、バフムート付近でコチュバイロが戦死したというニュースの第一報は、彼の死を待ち望んでいたロシア側から戦果として発表されたという。
一方、ウクライナでコチュバイロはロシアに対する抵抗運動の象徴となっていたため、兵士や市民の間に喪失感が広がっている。
コチュバイロの国葬にはウクライナの指導者たちが軍民問わず訪れ、母国に命を捧げた兵士に敬意を表した。
ウクライナ軍のヴァレリー・ザルジニー総司令官は「勝利への道のりは険しいものです。そして、勝利の代償は、武器を手に取って国家防衛に立ち上がった勇敢なウクライナ市民、つまり兵士たちの命なのです」と述べている。
メラニヤ・ポドリャクは『キーウ・インデペンデント』紙に対し、「コチュバイロは若くして優れた司令官として活躍しながら、いつも謙虚でした。彼はウクライナを守るための戦いに身を投じたのです」と語っている。だからこそ、ウクライナの人々は彼の死に打ちひしがれているのだろう。
写真:Twitter @Mykhailov_A