適正な判断に必要なものは「記憶」より「忘却」?:人間の記憶を巡る物語
先週の天気はどうだったか、レストランで隣に座ったのは誰だったか、どこでどんな服装をしていたか...... そんな人生のすべてを記憶しているという米国のアーティスト、Nima Veiseh。彼は一体どのようにあらゆる出来事を覚えているのだろうか?本人は研究者に対し「自分が知る限り、どうしてこんなことが可能のか、まだよくわかっていない」と述べたという。
Veisehは「ハイパーサイメシア(超記憶症候群またはHSAM)」の患者グループに所属している。HSAMの特徴は、ある時点以降に経験したあらゆる出来事を記憶しており、容易に思い出せるというもので、患者は世界に数十人しかいない。天から贈られた信じられない能力のようにも思えるが、果たしてそうなのだろうか?
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アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが短編小説「記憶の人、フネス」の中で言及している通り、あらゆる出来事を詳細に記憶するという限られた人にのみ許された驚異的な能力は確かに羨ましいものだが、実際にはデメリットも少なくない。
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短編小説の主人公、イレネオ・フネスは恵まれた才能の持ち主だが、記憶の重みに押しつぶされて日々を生きるのもままならない、という波乱の物語だ。フネスいわく:「私の記憶はゴミ箱のようなものだ」
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ボルヘスが作品の中で触れた通り、記憶というものは悲しみや苦痛、失敗、喪失に満ちているものだ。しかし、HSAMの患者はこういった辛い経験を鮮明かつ正確にフラッシュバックしてしまう。つまり、すべてを記憶するというのは一種の責め苦でもあるのだ。
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さらに、感情にまつわる問題以外にも考慮すべきことがある。ボルヘスが短編を執筆した頃は膨大な情報に日常的に晒されるというようなことはなかった。しかし現在、私たちの脳は日々過剰な情報を浴び続けており、新たなアイデアや発想を思いつくには、詳細過ぎる記憶を消し去るしかないのだ。もし、インターネット上で目にする情報を一つ残らず覚えているとしたらどうだろう?
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人体はうまくできており、各部がムダなく機能を果たすようになっている。では、記憶はどのような仕組みで作り出されるのだろうか?一言でいえば、まず脳が情報を受け取り、これをコード化してフィルタにかけ、必要性に応じて情報の取捨選択を行っているのだ。
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そのために、脳はいくつかの方法を利用している。新たな情報を、それが得られた状況と関連付けるというのもその1つだ。たとえば、新しい知り合いができた場合、出会った場所とその人物が関連づけられるといった具合だ。なぜなら、その知り合いを思い出す必要があるのは、再び似たような状況に置かれたときである可能性が高いためだ。もちろん、この方法には弱点もある。最初に出会った状況とは無関係の場所でその人物に再会してしまったら、まったく思い出せないということもあり得るのだ。
これについては、オリバー・バウマン、ジェシカ・マクファディエン、マイケル・S・ハンフリー率いるオーストラリアのボンド大学の研究チームが調査を行っている。彼らは、記憶対象と状況のペアを示す画像を利用した実験によって次のような事実を見出した:
- 被験者が最初に見たのと同じ状況で記憶対象を表示すると、脳は対象を容易に思い出すことができる。しかし、別の状況のもとで表示すると思い出すのは困難になる。
- それまでに見たことのない記憶対象については、最初に表示された時の状況以外の状況下で識別するのは非常に難しくなる。
つまり、私たちの記憶は最初の段階で情報の重要性に応じた取捨選択を行っているということだ。
研究リーダーのバウマン博士はVeishのようなHSAM患者のケースについても触れている。このような人々は、今この瞬間に集中することができないほか、直接経験したことがない情報は記憶できないこともあるため、日常生活に支障をきたしてしまうのだという。つまり、あらゆる出来事を記憶できるものの、それは自分自身で経験した場合に限られるのだ。
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生理学的な視点では、短期記憶も長期記憶も同じようなプロセスを経て定着するとされている。私たちが何かを記憶しようとする際には、脳内(とりわけ海馬)でニューロン同士の接続(シナプス)が作り出されるのだ。そして、これらの接続が弱まったとき、忘却を制御するメカニズムが発動する。
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新たな刺激を受けると、私たちの脳は新たなシナプスを作り出して記憶を上書きするようになっている。トロント大学の研究者ポール・フランクランドとブレイク・リチャーズによれば、肝細胞(未分化の細胞)がニューロンに分化することで海馬内の記憶の上書きを行っているのだという。
2人は、記憶の取捨選択の背後にある神経生理学的メカニズムを分析することで、この問いに答えようといしている。2人によれば、忘却は記憶と同じくらい大切だ。実際、記憶というものは私たちが通常考えるのとは違って、あらゆる情報を保存するためにあるのではなく、意思決定の最適化のためにあるのだ。 リチャーズによれば「矛盾に満ちた情報が脳に詰め込まれていては、記憶をもとに正しい判断を下すのは至難の業でしょう」
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したがって、情報を適宜「更新」することは人間の記憶に不可欠である。これによって、脳は神経生理学的な学習を行い、日常生活に適応するわけだ。つまり、記憶と忘却はコインの表裏のようなものなのだ。不要な記憶を消去しない限り、新たな情報を効率的に受け入れ、知的な活動を行うことはできないのだ。
理知的なものにせよ感情的なものにせよ、正しい判断を下すために必要なのは、忘却である。すなわち、忘却とは記憶システムの不具合ではなく、古くなった情報を消去することで効率的に新しい状況に対応するための仕組みなのである。
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記憶に騙されたと感じることがあるのはこのためだ。何かを忘れてしまった場合、ストレスや疲れのせいだと考えがちだが、原因はそれだけではない。忘却は、記憶を取捨選択する必要性から生まれた脳の正常な働きの一部だからだ。
したがって、記憶障害のようなケースでない限り、物忘れを過剰に気にする必要はなさそうだ。とりわけ、老化の兆候だと早とちりするのは良くない。実際、些細なことを忘れるのは健全だという見解で多くの研究者は一致している。
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このことはコロンビア大学アルツハイマー病研究センターの行った研究でも確認されており、所長を務めるスコット・スモール博士の著書『忘却:思い出さないことのメリット(Forgetting: The Benefits of Not Remembering)』に簡潔にまとめられている。心の健康は忘却と結びついているのだ。
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研究によれば、脳が不要だと見なすような情報はメンタルヘルスの妨げになり得るとされる。そのような情報を忘れることで私たちの思考力は高まり、素早く的確な決断を下すことができるのだ。
スモール博士いわく「健全な忘却と適切な記憶のバランスが柔軟な心を生み出す」とのこと。忘却とは、本当に重要な情報のために不要な情報を消去することであり、両者のバランスが大切なのだ。
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しかし、このことは研究者たちの間で以前から知られていた事実でもある。たとえば、米国における心理学の先駆者の1人、ウィリアム・ジェームズは1890年に「知的活動において、忘却は記憶と同じくらい大切だ」と述べている。
イスラエルのバル=イラン大学ゴンダ分野横断脳科学研究センター(Gonda Multidisciplinary Brain Research Center)に所属するモシェ・バル博士いわく:「記憶というのは娯楽のためにあるわけではありません。むしろ、サバイバルツールです。私たちは経験を記憶することで次なる事態を予測し、備えるわけです」したがって、パスワードや映画スターの名前を忘れてしまったからと言って不安になる必要はない。脳が正常に働いているだけなのだから。
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