中国が行ったスズメの大量駆除、大飢饉をもたらし数千万人が犠牲に
「一匹のチョウが羽ばたくと、地球の裏で竜巻が起こる」というが、60年代の中国ではそれに近い出来事がおそるべき規模で発生した。ただし、「スズメ」が「羽ばたくなくなった」ことが、予期せぬ結果をもたらしたのである。
その背景には、毛沢東時代の中国各地で展開された「スズメとの戦い」がある。その戦いは人間の勝利に終わったように見えたが、のちに中国全土で数千万人の死を招いたというのだ。そこにはどのような成り行きがあったのだろう?
ことの始まりは1958年、毛沢東率いる共産党政権が次のようなスローガンを発布した:「鳥類は資本主義の動物である」
毛沢東のおしすすめた政策はまとめて「大躍進政策」と呼ばれている。柱となったのは、農作物と鉄鋼製品の増産である。
毛沢東の政策はその行手をさえぎる障害物を容赦なく排除しながら進んでいき、蚊・蝿・ネズミ・スズメといった害虫・害獣もまた、その主要な排除対象とされた。これらの害虫・害獣に対する戦いは「四害駆除運動」と名付けられ、中国全土で熱心に取り組まれた。
「四害」のうちの蚊・蝿・ネズミについては、人民の衛生状態と健康増進といった名目で駆除がすすめられた。しかし最後のスズメには、別のニュアンスが加わっていた。スズメは中国当局により、共産主義の真の敵である資本主義と結び付けられてしまったのである。なぜならスズメは人々が苦労の末に収穫した穀物を、不当にも横からついばむからだ。
写真:Unsplash - Ahmad Kanbar
当局の目には、中国が進める大規模な農業改革において、スズメがその輝かしい未来を食い荒らす憎むべき存在のように映ったのだろう。
中国のジャーナリストである戴晴(Dai Quing)はある記事でこう書いている:「毛沢東は動物については門外漢も同然だった。それでいて専門家に相談したり、その意見に耳を傾けることも嫌がった。四つの害を取り除かねばならないと、ただ心に決めてしまったのである」
毛沢東はおかかえの科学者たちにデータを用意させた。それによると、一羽のスズメが一年で消費する穀物の量は、4キロから5キロにのぼるという。したがって、スズメを100万羽駆除すれば、6万人分の食料がまるまる浮く計算になる。農民たちはこんな甘い話を聞かされると、勇み立ってスズメの駆除に協力した。
スズメの捕獲について手段を問わないとする法令を当局は発布した。人々はスズメを巣から追い立て、鍋やフライパンを手にけたたましい音を鳴らしながら、スズメたちがくたびれて死ぬまであとを追いかけ回したと、フランク・ディケーターは2010年の著書『Mao’s Great Famine』に書いている(邦訳『毛沢東の大飢餓』中川治子訳、草思社、2011年)。
全土いたるところにカカシが立つようになった。学生から役人にいたるまで、多数の中国国民が一つの意思に貫かれたように、ひたすらスズメを捕まえ続けた。
写真:Unsplash - Mateusz Raczynski
この期間に駆除されたスズメの正確な数を指し示すのはおよそ不可能だとしても、1960年代初めにおける中国の人口が6億人だったことから計算すると、殺されたスズメは数億羽にのぼると考えられている。政権が目指したスズメの駆除は大成功を収めたといえるだろう。
しかし、今となっては当然の認識だが、ある地域のスズメが根こそぎいなくなってしまえば、生態系には計り知れない規模で変化がもたらされる。その変化は中国全土の農業生産に影響を及ぼし、ひいては人民の暮らしを脅かすまでになる。
人民たちが大きな変化に気づくまで、一年もかからなかった。スズメはたしかに穀物の粒をついばみはするが、イナゴのような、もっと恐ろしい害虫の大発生を抑えてもいたのである。イナゴは国中の穀物を食い荒らし、イナゴが去った後には南京虫が大量発生した。
増産ができなかったのはもちろん、農業生産はまたたくまに低下、全土で大飢饉が発生する。家庭からも店からも食料が消えてしまったという。
中国当局による推定では、この飢饉によって1,500万人が亡くなったという。民間の調査では推定死亡者数はもっと多く、少なくとも4,500万人、多くて7,000万人が飢えで命を落としたと、米『タイム』誌は伝えている。
当局はとうとう、ソビエト連邦から25万羽のスズメを輸入する羽目になった。民衆から目の敵にされていたスズメは、一転して救国の使者として迎え入れられたのだ。
ところで、環境ジャーナリストのジョン・プラット(John Platt)は、BBCに寄せた記事で、大飢饉はスズメの大量捕獲だけによってもたらされたのではないと解説している。
ジョン・プラットは他の理由として、工業化が急ピッチで進められたことによる行きすぎた森林伐採や、あまりに多くの農民たちを製鉄業や建設業に就かせたことが農業の担い手の不足につながり、収穫できた食料さえも無駄に腐らせてしまったという事情を挙げている。
加えて、気候条件も悪かった。プラットの解説によれば、1960年は記録的な旱魃の年となり、翌年からは洪水がたてつづけに起きた。
経済大国に成長を遂げた現在の中国からは想像しにくいが、その前段階にはこのような苦い歴史があった。もちろん、その失敗からなにがしかの教訓が得られたはずである。しかし、あまりに高くついた代価のことも記憶にとどめておくべきだろう。