画像で追う:開戦1年を経たウクライナ戦争
昨年の2月24日、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領がウクライナに対する「特別軍事作戦」を発令したと公表。その時点では、この「作戦」がこれほど長引くと考えた人はほとんどいなかった。
プーチン大統領による発令から数分後、ウクライナ全土に爆撃が行われた。この時点でウクライナの住民たちは、自国が世界で二番目の軍事大国と戦争状態に入ったことを認識するに至った。開戦から今日までのあいだに起こったことを、順番に確認してみよう。
ウクライナの国民はこの侵攻に対してただちに強硬な対決姿勢を固めた。数万人が領土防衛隊に参加したほか、数千人の市民が集まって大都市防衛のため火炎瓶を製作した。
ウクライナ側の最初の戦果は、キーウ近郊のホストメリにあるアントノフ国際空港でロシア軍の攻撃をしのいだことだった。アントノフ国際空港は開戦後三日以内にキエフを占領しようともくろむロシアにとって非常に重要な施設だった。
空港、ひいてはキーウの占領は免れたとはいえ、ロシア軍はウクライナ東部、北部、南部で大きく前進、広い地域を占領した。ロシア側にとって大きかったのは3月2日のへルソン占領で、戦争中にロシア軍によって占領された最大の都市だった。
3月16日にはマリウポリ劇場爆撃が行われた。これは戦争序盤にロシア軍が犯した戦争犯罪の中でももっとも広く知られているもので、子どもを収容しているという掲示を無視してロシアが攻撃、AP通信の推計では600人ほどの死者が出たとされている。
2月末には再びロシア軍がキーウ包囲に向けて動き出し、アントノフ国際空港やキーウ近郊の都市イルピンの大部分を占領した。だが市街地では激しい戦闘が行われ、ロシア・ウクライナ双方がなんども一進一退を繰り返した。それでも3月24日、ついにウクライナ軍がイルピンの主要拠点を奪還。ロシア軍がウクライナ北部州での軍事活動を大幅に縮小する一週間ほど前だったが、イルピンから避難する民間人に対するロシア軍による爆撃を防ぐには間に合わなかった。
3月29日、プーチン大統領により開かれた北部の戦線はロシア軍にとって賢明な選択とは言えないことがいよいよ明らかになり、キーウ方面への攻撃が完全に放棄された。以降ロシア軍はウクライナ東部での前進に集中することになる。
ロシア軍がウクライナ北部から撤退したことで、いままで占領されていた地域にウクライナ軍が進出。キーウ近郊の都市ブチャでは数多くの遺体が発見され、ロシア軍が犯した非道な行為が明らかとなった。BBCによれば、650人以上の民間人がロシア軍によって殺害されたとされる。
4月9日、ウクライナ東部の都市クラマトルスクの民間鉄道駅が爆撃され子どもを含む52人が死亡、100人以上が負傷した。アメリカの放送局PBSの報道番組、『PBSニュースアワー』が伝えた。ブチャの虐殺同様ロシア軍の残虐性が浮き彫りになった事件であり、世界の世論を大きくロシア軍非難に傾けることとなった。
4月13日、ロシア海軍黒海艦隊旗艦を務めていたミサイル巡洋艦「モスクワ」がウクライナ側の大胆な攻撃により被弾、翌14日に沈没した。開戦初期にウクライナ国境警備隊が残した有名な通信「ロシアの軍艦よ、くたばれ」が数か月越しに実現した形であり、ウクライナ側の大戦果となった。また、プロパガンダ的にもプーチン大統領とロシア政府にとって大打撃となった。
5月16日、数か月にわたるマリウポリ攻防戦の後アゾフスタリ製鉄所に籠城していたアゾフ連隊などのウクライナ兵がついに投降した。投降した兵士には9月に行われた捕虜交換で帰還したものも多かったが、ウクライナ東部オレニフカにロシア軍が設置した捕虜収容所での拷問により死亡したものもいた。
6月中旬、アメリカのM142高機動ロケット砲システム「ハイマース」の初回供与分がウクライナに到着。ウクライナ軍にロシアの進軍を止め反攻に転じる手段を与え、戦局を大きく動かすことになる。
7月2日、東部の要衝であるリシチャンスクがロシア軍により制圧された。この都市をめぐる攻防戦は長く、今回の戦争でももっとも激しい市街戦が展開された。
戦争初期にロシア軍に占領された黒海のズミイヌイ島だったが、6月末、ウクライナ軍による度重なる攻撃のすえついにロシア軍は撤退を余儀なくされた。困難な夏にむけてウクライナ軍の士気を高める象徴的勝利となった。
ロシアによるウクライナ侵攻による二次的影響としてもっとも重大だったのがウクライナによる穀物輸出が妨害されたことだった。輸出先の多くが貧困国だったこともあり世界的な食糧危機が懸念されたが、トルコと国連の仲介によりロシアとの間に合意が成立、黒海から穀物を輸出することができるようになった。『PBSニュースアワー』が伝えている。
ロシアは常々自国の領土が侵害された場合には核兵器の使用も辞さないと恫喝しているが、それでもウクライナはロシアの実効支配地域への反撃も敢行。8月にはクリミア半島のサーキ飛行場を攻撃した。『BBCニュース』は次のように伝えている:「攻撃を受けて、クリミア半島からは多くの観光客が避難していく様子が見られた。また、この攻撃はロシア政府に対して心理的影響も及ぼすだろう」
9月、ウクライナ軍が東部ハルキウ州で電撃的反攻作戦を開始。数日のうちに州の大部分を解放した。この攻撃を受けてロシア軍の多くの部隊が壊滅し、戦局もウクライナ優勢に傾いた。
9月21日、プーチン大統領は国内での大規模動員を発表、その数は30万人にのぼるとされた。これを受けてロシアからは徴兵年齢にあたる多くの男性が脱出。また、同じ演説内では、占領した4つの地域でロシアへの併合への賛否を問う住民投票を実施するとも発表された。
9月30日、国際的な非難を受けながらもロシアはウクライナの東部4州(ドネツク、ルハンスク、ヘルソン、ザポリッジャ)を併合。国連の発表では、この併合を承認したのはいまのところ北朝鮮だけにとどまっている。
プーチン大統領が併合を発表してからしばらく経った10月8日、ロシアとクリミア半島をつないでいたクリミア大橋が謎の爆発により破壊された。この爆発について、いまだどの勢力も実行を宣言していない。
このクリミア大橋への攻撃を受けて、ロシア軍ではセルゲイ・スロヴィキンが総司令官に任命された。スロヴィキンはただちにロシア軍の戦略を変更し、ウクライナの電力インフラを攻撃し始めた。
11月9日、苛烈な撤退戦の末、ロシア軍が南部ヘルソン州のドニプロ川西岸地域から撤退。その二日後にはウクライナ軍が州都のヘルソンを奪還した。
12月5日、ロシア本土の空軍基地をウクライナ軍が攻撃。この攻撃にはソ連時代の無人偵察機が使われたとみられている。CNNによると、攻撃されたのはリャザニ州のディアギレボ空軍基地とサラトフ州のエンゲリス空軍基地で、複数の戦闘機が破壊されたという。12月26日には再びエンゲリス空軍基地が攻撃され、兵士3人が死亡したと伝えられた。
新年はウクライナ側の華々しい戦果で始まった。1月1日、東部マキイフカ地域に展開していたロシア軍の兵舎をウクライナが攻撃、『モスクワ・タイムズ』の報道では少なくとも89人が死亡したとされた。
1月14日、東部の都市ドニプロの集合住宅にロシアのミサイルが着弾し大きく破壊された。AP通信によれば少なくとも45人が死亡したとされ、世界に衝撃を与えた。
1月25日、ドイツ政府がウクライナにドイツ製戦車「レオパルト2」の供与を決定したと発表、ロシア軍は春の攻勢の日程を早めることで対応するとみられている。また、1月16日には東部ドネツク州の都市ソレダルがロシア軍に占領されたが、2月8日には同じく東部のヴフレダールに迫るロシア軍を撃退、装甲車両30両以上を破壊し、小隊全体を壊滅させた可能性も示唆されている。『ポリティコ』が伝えた。
2月20日、アメリカのバイデン大統領がウクライナのキーウを電撃訪問、空襲警報の鳴り響く中堂々と歩く映像が公開され、アメリカ政府としてウクライナへの支援を約束した。こうしてウクライナでの戦争は開戦から1年を迎えたが、いまだに終わりは見えない。どの陣営も、当初想定されていた以上に戦闘が長引いていることを認識し、対応を始めている。