『悪魔の詩』の作者サルマン・ラシュディ襲撃事件:イスラム過激派の犯行か?
2022年8月12日、ニューヨーク州シャトークアで講演していたインド生まれの英国人作家、サルマン・ラシュディが刺される事件が発生。
75歳のラシュディは一命を取り留めたものの、片目を失明する恐れがあるほか、回復には時間がかかる見込みだという。犯人の男(24)は講演会場で現行犯逮捕された。
事件の数週間前にはドイツの『シュテルン』誌に対し、安堵感を漏らしていたラシュディ。『悪魔の詩』を出版したことで何度も身の危険に晒された80年代後半に比べ、最近はずっと落ち着いた生活を送っているはずだったのだが……
今回の事件がなぜ起きたのか、そして『悪魔の詩』がどうして物議を醸すのかを理解するため、事の経緯を振り返ってみよう。
1947年、インドのムンバイで誕生したサルマン・ラシュディ。父は起業家として成功を収めたイスラム教徒で、家庭では英語を用いて息子を教育したという。
ラシュディは初め、英国のラグビースクールで学び、続いてケンブリッジ大学に進学。1968年に歴史学部を卒業した。
写真:Vadim Sherbakov / Unsplash
2番目の小説『真夜中の子供たち』が思わぬ世界的ヒットとなったことで、小説家としての地位を確立する。
しかし、彼の名が良く知られるようになったのは4番目の小説『悪魔の詩』が出版されたときだ。
世界中のイスラム指導者たちがこの小説、とりわけ預言者ムハンマドの描き方が冒涜的だとしてラシュディを非難したのだ。
そして、1989年2月14日、当時イランの最高宗教指導者だったアヤトラ・ホメイニ師が、ラシュディの死刑を求めるファトワ(イスラム法学者の発する宗教見解)を発令。実行者には賞金も出されることとなった。
その結果、インドやスリランカ、バングラデシュ、スーダン、南アフリカ、ケニア、シンガポールといった国々で『悪魔の詩』は発禁処分となった。
『悪魔の詩』の出版によってイスラム諸国と西側諸国の間には軋轢が生じたばかりか、英国では社会そのものが分断されることとなった。写真は英国ブラッドフォードで同作品を焼く人々(1989年)。
1990年、ラシュディは『悪魔の詩』によって冒涜されたと感じた人々に向けて、正式な謝罪を行った。
しかし、ホメイニ師は「サルマン・ラシュディが悔い改め、史上最も敬虔な人物になったとしても関係ない」と述べ、ラシュディの死刑執行に手を尽くすことこそ全イスラム教徒の責務だとした。
以来、『悪魔の詩』を動機とした爆弾テロや暗殺事件がイスラム過激派の手によって何度も引き起こされることとなった。
日本では1991年に、『悪魔の詩』の日本語訳に携わった五十嵐一が刺殺される事件が発生。一方、トルコ語訳、イタリア語訳の翻訳者に対する暗殺の試みは未遂に終わった。また、ノルウェーで『悪魔の詩』を出版したウィリアム・ニゴール(写真)は1993年に襲撃され、3発被弾したが一命を取り留めている。
一方、身を隠したラシュディはジョセフ・アントンという偽名を用い、ひっそりと執筆活動を続けることに。そして、2012年、『悪魔の詩』騒動とその後の生活について詳述した回想録を出版した。
イラン政府はラシュディの死刑を求めるファトワについて近年は関与しない立場をとっているが、2017年には当時の宗教指導者が今もファトワは有効だと再確認している。